糺さない、改めない、直さない2010年10月09日 21時20分48秒

ことばの誤り1
写真の看板は誤りを含んでいます。正しくことばを感じとれる人ならば、「危ない*から*」「入らないで」「ください」の組み合わせで最初の文節に間違いがあることはすぐにおわかりと思います。理由や原因を受ける場合に「から」は肯定の(表現の)述語や用言につながります。です*から*、これは「危ない*ので*」に直さなければなりません。こういった例は各地各所で散見されます。それを糺しあるいは質し、その姿勢や態度を改めて直す、そういった流れで変えていく環境を私たちは創っていかねばなりません。でないと、むちゃくちゃな中国やまるでことばの通じないアフリカの部族やアラブの部族のようになってしまいます。

多く、広く使われ出しているから、誰も何も言おうとしないから、(ここです、から)そのままでよい、そうする、では進歩や前進の前提となる誤りの指摘や思考が失われるどころか、奪われてしまいます。写真を撮った、何も看板もなかった区域に侵入した、それだけで何日も拘留されたり自由を奪われたりする、そんな理不尽な、では済まされない歪んだ社会の抑圧に手を貸すことになってはならないのです。人類の普遍的な原理をどんな社会においても実現させ、理解させ、当たり前の生活や人生がおくれるように私たちは声を大にして言わなければなりません。たとえ、どんなに現在の「社会体制」が支配的にその国や一部の地域にあろうとも、誤った観念や感覚はそれを推し進める人たち自身をも否定することになる、ということを思い知らさなければならないのです。

現在の中国では、かつての、そして時に今でも、日本でもあった、そしてある、『依らしむべし、知らしむべからず』の支配と従属的な関係の浸透を図る社会の「体制」がまだ崩れません。昨日のノーベル平和賞のニュースさえ中国人民には知らされません。社会を支え、維持し、発展、つまり進歩を目指すならばなおさら、その社会の支配構造を壊し、自由な空気の通る社会に変えてゆかねばならないのです。その第一歩に、最初に挙げた、ちょっとした「ことば」の問題があるのです。気になることばとしては、「御社」があります。日本語として、つまり、敬意表現として、この言い方や「よろしかったでしょうか」的な言い方は明らかに誤りであることを感じることさえ抑えるかのような就職活動やビジネスの慣行が横行しています。どちらも、尊敬語として間違っていることにどれほどの人がはっきりと知り、指摘しうるでしょうか。支配的だから、広く使われてきているから、そんな右へならえ的な態度でことばに対する大切な感覚さえ麻痺させているとしたら、それはひいては社会のゆがみや崩壊にさえつながっていくことにもなるのです。