日本人であること2010年10月10日 21時47分41秒

ハクセキレイ(雌)
私たちが私たち自身をして「日本人」である、と言い切るとき、何を意味するでしょうか。かなりの人たちは、いわゆる「日本人らしさ」に言及するでしょうし、別の人たちはまた一方で、歴史的な転換を経験して新しい思考や制度を取り入れ人間としての普遍的な価値観を共有しうる、自由で民主的な社会を形成する一員であること、と答えるかもしれません。どちらにしても私たちは私たち自身の生命や人権の基本的な、そして必然的な保障を社会的に実現されていることを前提としているのです。

しかるに、です。現代の中国はそうではありませんし、ビルマも一部の(ともいえないかもしれませんが)アジアの国々もまた、すべての個人に対して、国家として、社会的に基本的で普遍的な人権の保障を共有しているわけではありません。昨日解放された高橋さんにしても、2週間以上も拘束したりするほどの重大な不法行為を働いたわけではありません。明らかな、意図的な報復・対抗措置であったことはわかりきっています。日本の検察はその反対であったのですから、これは決定的に違います。

国家によって人権が侵害されることは許されません。ましてや、私刑的なやり方によって特定の個人や団体が意に反して束縛・拘束されたり権利を制限されたり奪われたりすることなど、社会的に決して許されることではありません。しかし、残念なことにそうでないケースもみられます。一方で、国家転覆や反社会的行為については、図った、計画したとうだけでも罪に問われうるのです。ただ、中国のように政治的な意図でもって強権での権利の剥奪や否定・抑圧などには、少なくとも日本では反論だけでなく、有効な対抗措置を講じることや回復のための手段が用意されます。その合意のもとに社会は成り立っているからです。これは日本国内、どこにいっても同じです。差別も区別もあってはなりません。