理あれば正義あり2010年10月01日 21時23分39秒

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中国の振る舞いは言語道断と言い切るだけの理由があります。道理・条理・論理、そして事実に基づく合理的な思考、そこから外れたらもう正しさを主張することはかないません。そもそも、現代の中国には事実をありのままに認容する態度そのものがありません。出発点から誤ったままなのです。ましてや、力と数の横暴に、あるいは大国による小国いじめそのままの理不尽極まりない一方的で身勝手な発言や行為を私たちは認めることなどできないのです。

気に入らないから、気に障るから、自分たちには好ましくないから、そういった理由で弱い側を(しばしば絶対少数を)集団であるいは数にものを言わせて叩いたり襲ったり攻撃したり排除したりする、そんな自分本位の思い込みや利己的な感情で他者を平気で傷つけたり追いやったりする行為や言動を正当化することなど許されません。中に、本当に勇気ある人間が諫めたり止めたりするときに逆にその人をその対象にしたり嫌われるんだといってあらゆる種類の暴行暴力を振るったりする、そんな側に正義などあり得ません。人間がその歴史の中で命をかけて作り上げてきた基本的な思考や倫理はそのまま社会を規定する法と成り不文律となって私たちを律しているのです。道理に基づき論理的に思考し、人間らしい感情や心情を理解し善悪を決めてゆくのです。

しかるに、中にはそのごく基本的な、いえ、根本的なそして極めて簡単な約束事やものごとの善し悪しを判断する上で基礎となるヒトが人間たる所以の認知さえできない、いえ、最初から存在しない、持ち合わせていない者たちもいるのです。そこに教育が存在してもその者たちを人間たらしめることができないのです。欠失とはそういうものであり、教育の価値がありません。同じく、小さい頃から誤った思考や偽りの歴史や認識・観念を植え付けられ、すり込まれてきた者たちにも共通した側面があります。例えば中国人や北朝鮮の支配者層です。彼ら自身が哀れだ、と済ますことができないのは、彼らが、たとえば、弱い人たちや何の関係もないたった一人の人間に対して危害を加えたり蹂躙したりすることとか、たとえば、隣国の小国を大声で恫喝したり嘘を信じ込んで有りもしない難癖をつけたり暴力に訴えたりする、そういった行為に及ぶ著しい危険性を孕んでいるからです。恐ろしいのはそんな行為に何の疑問やためらいさえも持っていないことです。何らかの隔離や封じ込め、排除が必要です。彼ら自身を矯正・修復できないとしたら。