認知障害に対処する2010年10月03日 20時17分22秒

ナツメの木
現象や事象を知ることには違った段階が存在します。また、それぞれは人により異なります。しかし、普遍的で合理的な見方が必ず存在するのです。なぜなら、事実としてのできごととそこにある真実はただひとつだからです。それは第一義的には観察によるのですが、マクロな現象や事象の場合は揺らぎやぶれを感知することなくとらえることができるのです。

中国には多く、ゆがんだりくもったり斜めに見たりすることを何の疑問もなく当然と信じている人たちがいるのです。ありのままに見つめ、それを事実としてとらえ、自然な状態や順序や変化を知り、認識へと導く、といいう基本的な認知を彼ら自らが妨げてしまっています。知る前にそれをどうするかを勝手にきめているからです。これは何も、中国人に限ったことではありません。日本にもまた存在します。特に生まれつき歪んだ心を持って育ってきた不幸な、そして矯正不能な者たちは同じなのです。いずれにも共通するのはどちらも他者に対して迷惑以上の行為に及ぶことがしばしばあることです。その者たちだけで完結するのなら放っておけばよいのですが、そうでない場合が困るのです。

侵略的な攻撃や干渉・介入に至る場合がよくあり、ひとたびやり始めるともう何も見えなくなり、聞く耳を持たずにどんなに他者が傷つこうが蹂躙することに疑問もためらいもいだかなくなるのです。行為の認識どころか、認知すること自体にまったく至らない乖離性の傷害といってもいいくらいの人間性を完全に失ってしまったかのような態度をとり、尋常では考えられない行為に手を染め、言動に耳をふさぎたくなるような人間として信じられない振る舞いをするのです。9月の中国人はまさにそうでした。もっとも効果的でよい対処方法は自明ですが、そうせずに私たちはなくすための手立てを考えることができるのです。