小沢氏強制起訴 ― 2010年10月04日 20時19分25秒
『著しく不合理』との理由で民主党の小沢一郎元代表は強制起訴されることになったのですが、社会の機能としてはこれは正常であるといえます。私は個人的には小沢氏の自由党時代のメールマガジンを読んでいて必ずしも負のイメージでは見ておらず、むしろそのかつての姿勢や主張には共感するところも大きかったので、今回の陸山会の事件は残念でなりません。また一方で、多くの印象や受け止め方といった、事実を追って思考した結果ではない、一般の感じ方に重きを置いた議決にも懐疑的にならざるを得ません。
私たちが「合理的」ということばを使うとき、それは「理にかなう」ことであり、道理にしたがった道筋、論理的な思考の帰結であることを意味します。ですから、一貫して私は中国の振る舞いや荒唐無稽な言動、暴動と言っていい一般の(報道されている)行為には強く抗議していますし、有効な対応のできないままの日本政府が残念でならないわけです。同じく、むしろ非合理な主張や言動の目立つ一般の人々や私の周囲には怒り以上のものを覚えます。ですから、真に糾弾すべきはなにか、誰かに思いをいたせば疑問を感じざるを得ないわけです。
ならば、何をどうすべきか、です。しばしば言及されながら実現していないことこそ今一度考えなければなりません。政治と社会の透明性の制度的な、実効のある実現です。つまり、機械的に実装されなければ、まさに強制的に仕組みを作り上げなければいつまでたっても同様の事件や隠し事が起こるわけです。また、政治や制度、社会活動への参画の自由で機会均等な実現こそ大きな変革につながると信じます。法律上は何も障害はないようにみえますが、実際にはお金や結びつきや名をあげることなどが(つまり、地盤・看板・鞄の延長)その条件になっていることです。昔ほどでないにしろ、やはり名の通った人たちの売名性が大きくものをいっています。そうではなく、確かな言論や実行の成果などによって議席を目指す方向に変えなければ今の政府のような役立たずどころか、国益や社会の存立を脅かす政治になってしまうからです。もっと、ひとりひとりが考え、論議を重ねて目覚めなければ立ちゆかなくなるのです。
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