黄砂の中のハクセキレイ ― 2007年04月01日 20時48分24秒
視程はそれほどでもなく、2kmさきは一応うすぼんやりではあっても見えたので、特に記録をとるほどの状況ではない、と判断しています。でも全体に霧がかかったようで境目もなく、見にくい環境ではあったわけです。そんな中でも、セキレイたちは元気で、下の地面と見通せる場所では目立っていました。
必要なのは見通そうとする意志であり、感じる感覚であり、直観です。自己中心的な主観に陥ってはいけませんが、ありのまま、受け取る姿勢はセキレイたちにも似てあるがままの姿を感じさせます。黄砂なお ― 2007年04月02日 20時49分46秒
きっと、また来るときのために、流れを作っていたのです。でも濁りは幸いとはならず、迷いともつかず、ただ一方に流れてきたのでしょう。望めたのはその方向のみ、です。
庭のウグイス ― 2007年04月03日 20時46分24秒
いつも、1羽のみ、気ぜわしそうにあちこち飛び移りながらの鳴き声は賑やかにさえ聞こえます。きっと、誰かをよんでいるのだ、とその声を聞きながら想像します。だって、1羽ぼっちなんですから。
春が、私の春が、このウグイスとともにやってきてくれたら、と思うこの頃です。コゲラの森 ― 2007年04月08日 20時53分59秒
でもきょうは他にはみちばたでルリタテハに出会った以外、めぼしい出会いはありませんでした。もちろん、妙齢の女性に出会うことなど、ありませんでした。
森にはそういった出会いや思いがけない発見がありますが、下界ではおかしなことで物事が進んだりねじ曲がったりして崩れてしまう、そんなことが多いのです。誰が、とかいうよりも、誤解や偏見や先入観は自然の純粋さに比べいかにみにくく、歪んでいるか、それがおかしな思いこみにつながり、人と人との関係が壊れたりします。情けないことです。ノビタキの出現 ― 2007年04月09日 19時52分57秒
4月はそのシーズン(季節)で、5月まで見られます。その後、どうしているのか、どこへゆくのかはわかりません。この地では例年の―わたしにとっての年中行事として―行動と観察の暖かな日々です。
時期的にどうか、というよりも、気温や環境(特に、草花や何かの生育状況)に依存しているかのような行動を見て取れます。実際、ヒト(あるいは、人間たち)でも、時間や時季を決めて行う、というパターンをとるよりも、その適応可能な環境に変わったときとか入ったときにその行動を決めていくことの方が多い、という事実を知ることはないでしょうか。朝のヒバリ ― 2007年04月10日 20時13分51秒
実際、ヒバリたちの高く舞い上がる姿やそのさえずりの賑やかさ、高らかさは命の姿を如実に表現していると思うのです。同じく、子供たちの楽しそうな登校風景やなんかもみていると、その命の姿を賞賛せざるをえません。
だからこそ、今のいま、自分を省みると、悲しくなります。どうしようもなく、涙が出てくることがあります。なんとかしたい、といつも思うのですが、なかなか、思うようには変わりません。変える努力がなかなか、実を結ばない、そのもどかしさ以上のやりきれなさはどうしたら直るでしょうか。ノビタキの夜明け ― 2007年04月11日 21時09分58秒
飛び移ってはじっとして眺める、その仕草というか、習慣は特徴的ですから、その様を見いだすのは簡単です。春の姿として、この地では間違いなく、たぶん、他の土地でもそうでしょうけど、目に映る風景の一部になっています。
夜明けこそ、望んでいた時ですから、生き物たちにとっては喜びですし、始まりです。いつも、そうやって見つめてきたはずの時間ですから、これからもまた、希望を持ちたいものです。今朝のノビタキ ― 2007年04月12日 21時14分54秒
クロスするのではなく、木に水平に、というか、平行に向かってとまっているところがちょっと変わっています。わざわざ、とまりにくいだろう留まり方をしているのはどういう意味や理由があるのでしょうか。
これは視点ではなく、支点、つまり、安定性や落ち着きを求めた結果なのだろうと推測できます。草に留まるときは決まってクロスします。草の柔らかさとその弾力性を使うためです。一方、堅い木や枝などはそれを考慮する必要がありません、ですから、とまりやすい留まり方で落ち着きを方向付けたのでしょう。いと早いシャク ― 2007年04月13日 21時08分43秒
特徴的な葉、その広がり、花のダイモジソウににた白い広がりの5つの花びら、花の付き方、それはそのままです。でも、この時季、まだ4月の半ばに至っていません。暖冬の影響もあるでしょうけど、これについては、この場所、生えた土地に起因すると思われます。日当たりは抜群によく、遮るものはありません。競争する種もこの時期にはほとんどありません。
良い意味とすれば、自由に、のびのびと、妨げたり、足を引っ張ったりするものがなければ、早く、間違いなく成長する、そんな例とも言えます。でも、孤立していて、どこか寂しさが見えます。ここで繁栄するとは思えない部分もあるわけです。一方で、植物ですから、違った勢力をもって子孫を作っていくこともあると思われます。どうなるのか、人為的な環境のなかですから、この後はわかりません。コチドリ増える ― 2007年04月15日 20時53分14秒
今朝のコチドリは、川で水浴びをして(もちろん、浅瀬)、河原に上がって毛繕いです。終わるまで見ていましたが、せわしなさと警戒心が入り交じっているようで、なかなか彼らにとって、身を清潔にするのもまた、命がけの日常なのでしょう。
ノビタキもまだいます。場所を奥にして飛んでいますが、もうそろそろ、見かけられなくなる頃に近づいているようです。こちらは、数が減ってきています。
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