遅れてきた秋 ― 2011年10月02日 16時24分41秒
きのうは秋晴れでしたが、今日の方が曇り空ながら秋風が吹き、涼やかで秋らしさを感じさせます。いやな仕事も9月で終え、新たな気持ちで臨みたいと構えています。細々としたことどももうっちゃって、秋を満喫したいと考えています。
そして、ふと思いつくのは、カール・ブッセの詩(上田敏訳)の「山のあなた」です。澄んだ空気を通して、遙かな山の向こうを見つめるとき、巡り巡ってやってくる幸せを早くかみしめてみたいと願うのです。アカトンボは減っているか ― 2011年10月04日 17時16分46秒
アキアカネ、20の割合で100mにいました。これが多いか少ないかは(あるいは、減っているのか増えているのか)毎年かぞえていませんのではっきりとはいえません。
ナツアカネ、24
ノシメトンボ、4
ただ、他の種類の、とりわけ大型のトンボ類は間違いなく減っている、という印象をもっています。サナエトンボの類は年々少なくなり、ギンヤンマなどは一夏に数匹です。にも関わらず、ウチワヤンマは必ずみかけますし、オニヤンマもいくつも高速飛行をしています。綿密な追跡調査をするには一人では難しく、何人もの有志による継続的な観察が望まれます。
それで元の赤とんぼですが、季節と時期を考えたとき、きのうなら20℃の外気温ではそれなりで、ちまたで言われる、激減、との声には私は今は同調できません。ただ、環境の変化、というよりも破壊と改変を考えたとき、どうしようもない危機感と恐れを抱きます。自然保護センターによる集計と考察が待たれます。燃える炎~怒りの矛先 ― 2011年10月05日 12時05分24秒
公正で公平な社会こそ私たちが立脚すべき社会であり、機会均等こそ自己実現の礎です。でも現代の日本社会はそれを実現していません。横行する強圧的な企業を中心とした横暴といっても足りないくらいの経済最優先の社会的な強制、3年生からすでに活動をはじめなければならないという、学業そっちのけの本末転倒も甚だしい就活、格差などと暢気にいっていられない就業や賃金、社会保障の著しい未熟さ、欧州は経済的に困難に直面しながらもそういったところには決してしわ寄せを持って行かない大人の風土を考えるとき、国難に直面する今、何を為すべきかをまったくわかっていない政治家どもや一般の人たちにさえ、腹立たしさを禁じ得ません。
何より、あらゆる階層に渡る教育の重要性、いえ、決定的な必要性を感じさせます。先天的に、あるいは致命的な障害を背負って生まれた子どもたちさえ、学校での教育により何とか一人歩きをできるまでに育ちます。何より、教育の価値をそこに見いだすことができます(少しですが働きました)。それに引き替え、健常者として居る人たちにはまったく教育の意味を成さない者たちもいるのです。その割合が増えているように感じます。教育とは、詰め込み教育ではありえませんし、ましてや、そのための教師を作ることでもありません。事実と道理に基づき、社会や自然を観察し、何に視点を置き、いかに考え、どう行動すべきか、それを他者に依存せずに自分自身で思考してよりよい姿を求め続けること、これは一つの方向です。そして、繰り返すならば、ひとりひとりが平等で公平に扱われ、公正な立場で望める、そして何に対しても機会均等であること、これはすべての基礎にならねばならない社会の姿なのです。耳を疑う発言 ― 2011年10月06日 08時28分19秒
福島の事故を目の当たりにし、物理学的に放射能について原理的によくご存じであるばかりでなく、究極の粒子についての理論家であられる益川さんが、です。およそ、第一人者の言とは思えないその内容に日本をリードする科学者の現状に著しく危惧を覚えます。
新たな境地を開く、その最先端におられた益川さんなら、何より、誰よりも新しいエネルギーや社会の仕組みの構築に向けて主導して、先導者として大胆な発言や能なし政治家たちに辛辣な諌言をすべき立場であってほしい、そんな期待が吹き飛んだのです。どうか、益川さん、目を覚ましてください。大切なこと ― 2011年10月10日 16時24分31秒
若い人たちに言っておきたいこと、言い続けたいことに、次の3つがあります。
そして、いうまでもなく、これらに加えて、
- 陰口をたたくな、
- 卑怯なことをするな、
- 人を欺く嘘をつくな。
弱いものいじめをするながあります。信じたくとも、信じていても、時として、あるいはかなしいことにしばしば、騙されることが往々にしてあります。それでも決して、これだけは譲れない、これだけは守らなければならない、そんなことが誰にでもあるものです。それは私たち自身を悪や欺瞞、暴力や抑圧から自由であるために必要なことです。そして、信頼できるひとがそうであることをはっとして気づいたとき、そのひとを、そのことばを揺るぎなくその人生をかけてきた姿とともに、信じ抜くことです。 人間としてやってはならないことを平然とする人たちもいます。同調せず、動じず、自身を貫くことのできる、精神的に自立した大人になることを示さなければなりません。寄りかかっていてはなりません。自ら知り、行動し、獲得することです。そして嘘を見破り糾弾することです。正すことを忘れてはなりません。
プライバシーと人権 ― 2011年10月11日 15時21分22秒
しかるに、あまりに、そこから離れた町中でのあけすけな興味関心を自己中心的なものの見方において向けてくる悲しい姿を直に感じるとき、私たちはそれをなんとかして排除しなければならないのだ、となお自覚するべきなのです。そこには恣意的なものごとの正当化、つまり犯罪行為の広がりを見るからです。私的生活は最大限尊重されなければなりません。ましてや、直接的な接触や対話の存在しないところであってはならない行為こそ、意識的に取り上げ、なくしていく行動を起こさなければなりません。
人権とはいうまでもなく、血を流して獲得された、基本的人権であり、これは万国共通であり、普遍的な不可侵の権利なのです。互いを認め合い、尊重し合い、高めなければなりません。理解しない、しようとしないものたちは、アラブの春の例を引き出すまでもなく、いずれ、遅かれ早かれ、私たちの社会から排除されるのです。これもまた、人類普遍の原理なのです。その基礎は一人一人の尊重にあるわけで、そのプライバシー(私的生活の自由)はこれをまた不可侵の権利と認め合うことで成り立つのです。ましてや、勝手な吹聴や伝聞は名誉毀損であり、人格の否定でもあるのです。決して許されることではありません。失われた心 ― 2011年10月12日 07時45分43秒
他者を離れたところから録音や特定のできない方法で攻撃する、などという最も卑劣な手口はどこから生まれるのでしょうか。常に録音をしながら生活などできませんし、突然、あるいは通りすがりにそういったことばによる攻撃や蹂躙行為に走る人たちにどんな理由を見いだすでしょうか。他者の心理につけ込み忌まわしい行為や言動によってその人を貶めたり辱めたり、その人の生きる上での重要な、時として決定的な時間や精神的安定(安寧)を脅かしたり破壊したりする、そのことで取り返しのつかない躓きにいたるとき、その人が悪意に対して抱く恨みや怒りはどれほどでしょうか。
いうまでもなく、いわゆる「努力」だとか、「精進」だとか、「刻苦勉励」だとかはその大前提となる心の安寧なくしては始めることすら不可能です。なんとかして、とにかく訳のわからない(日本語ではないし意味不明な)ことばによる攻撃や妨害をうっちゃっても、そういった悪意でしかない心による障害が間欠的に続くとき、その命をかけたといっていい大切な行為は灰燼に帰してしまいます。何一つ、実を結ぶことなど見込める道理がないからです。寒々とした風景の広がる社会に明日を夢見る希望を持つことなどできません。ベラルーシと協力を ― 2011年10月13日 15時10分10秒
こどもたちなら、限りなくゼロに近づけるべき、との指摘は至極もっともであり、以前に20ミリシーベルトでの親たちの騒ぎと改正の要求運動ですらおとなしすぎる、との印象になるのです。もっと厳格な視点での再設定と除染の方法の再考が求められると感じさせられました。
実際的な方策や現実に取られている施策・作業などをベラルーシだけでなく、ウクライナやロシアの専門家・実務者たちを招いて、あるいは出向いて学ぶべきときです。大事故故に自国のことで手一杯なのは理解はできますが、だからこそ、なおさらもっと効果的で迅速な対策の実行が焦眉の急だからです。熱の後先 ― 2011年10月14日 09時41分01秒
先頃、ラ・ニーニャだという発表がありましたが、このところの気温の推移や地球の、特に日本付近の地下の蠢きを知るにつけ、その熱っぽさはかなりの圧力をもって私たちに迫ってきているように思えます。次第に西方に移動するかのような地震の発生、日本だけではない熱帯性の降雨(フィリピン、タイ、台湾、などなど)の尋常でない激しさ、その高まりはどこかで一転して降下するのでしょうか。ラ・ニーニャでは冬は日本付近では寒くなるのですが、そういったある意味、「単純な」図式で描かれる解析や事実の結果に受け入れがたいものを感じるのです。
くしくも、中東だけでなく、かのアメリカ大陸東岸でも虐げられた人々の熱い叫び、悲痛な訴えが町を席巻しています。各地に飛び火し、共感を得られる充分な理由があるのです。どこもかしこも、熱を発生させる要因に充ち満ちているのです。金草岳登山 ― 2011年10月16日 18時00分26秒
やはり登山道は湿っていて滑りやすく、何人も尻餅をついたり危ない場面にも遭ったのです。でも往路2時間半、帰路(復路)2時間、無事16名の日曜登山は暮れたのです。山頂は狭く、先客十数名とでいっぱいいっぱい、何とか全員が昼食を終え、3パーティは頂上を後にしました。急登2カ所、その他緩い登りなどとともに下りも重なるアップダウンの疲れる道のりでした。実際、足がとてもしんどかったのです。
紅葉も始まっていて、それなりに美しく、遠く冠山の三角形の姿も拝んで山頂までにそれなりの遠望や展望に目を楽しませてくれます。疲れる道ではあるものの、尾根筋のこのコースはなかなかで推奨できると思います。惜しむらくは雲の多さでしたが、またこれから新たな時間を過ごせれば、と期待されるところです。
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