変質した自己愛2006年11月22日 21時36分38秒

自分が大切、それはそれで結構なことです。でもそのためには他人を、他者の生命はもちろん、生活や人権を侵害したり、さらには人格さえ否定したりする、そんな行為言動が許されていい理由はありません。にもかかわらず、どんどんその程度がひどくなりつつあるのです。その実例は子供の頃からの「いじめ」、意図的な「差別」、恣意的な「区別」、それをまた手段とした排斥・迫害の実態、などです。

この日本の社会ではとくにその傾向が著しく感じられます。それも陰湿・陰険なやり方が進行しつつあります。それが充分「認められる」と(その集団や社会層で)今度はあからさまな形でそれが行われうるのです。その一例は先日ここに載せた女子中学生の毀損行為です。

誰かそういった対象を作り、それを徹底的に攻撃する。継続的・反復的に行えばそれが当然であるかのように思われてくる。そしてしばらく休み、またそれを行う。間断をもってするのが非常に効果的である。こういった手続きでなされるのは何も子供の世界だけではないのです。むしろ、大人の世界で著しく、そのために涙を一人流すどころか、血を流して命を絶つ人たちも多いのです。

そういった行為に走る、言動を繰り返す、それを広め何も感じないようになるまで行う、そんな者たちの中にあるのは単に自己中心的な世界観、支配感に留まりません。その本質としてよく知られているのはナルシシズム(自己愛)の一種です。でもそれは極度にねじ曲がり、変質しています。熱帯性低気圧がどんどん水蒸気をもって発達して台風となって渦巻くように、あるいは積乱雲が大きく高くなるように、そして終いには竜巻となってその進路にある者を破壊してしまうのです。

彼らは自分たちをどこまでも自己弁護し、その協力者や「仲間」を擁護し、決して謝罪はしません。罪を認めることもありません。そう考えないからです。必ず、『されるやつに原因があるからだ』と声高に主張します。『そんなことをしているから』とか『そんな態度だから』、だからされて当然なのだ、「嫌われて」当然だと言いふらしさえします。すでに罪に自身を問うことから完全に逃れてそのひとかけらの良心や当たり前の心、感覚を押さえつけることに成功していますから、他者、とくに犠牲者に対する攻撃を強めること、そして一連の言動・行為を否定する虚偽の主張と行動を繰り返します。そう、まさに自己愛そのものなのです。救いようがありません。