人間として生きる2011年05月07日 22時25分12秒

キジの啼く時
三月の終わり、あるはずだった仕事を一方的に奪われてひどいショックを受けました。本来なら怒るべきことも怒る気にさえなれず、じっとしていることができなくなり、その辛さは今までなんだったのか、と思うほど気力や気持ちが湧かなくなったのです。それまでもあったのですが、まだ希望をもっていました。でもこの時は、傍目からはよくあること、の類でしかないかもしれない出来事なのに、考えようもしなかった、言い知れぬ喪失感と真っ白な壁に阻まれたショックを受けたのです。多分、他の人たちにはまず理解されないのですが、私の個人的な歴史からこの3月の偽りの希望とその剥奪によるショックは普通ではなかったのです。

実際に、震災直後から民放で流されたAC(公共広告機構)のフィルムのように、『その気持ちや思いを形に』というように、なにかが具現化されなければどんなことばや思いも何の意味も持ち得ません。何一つ、誰のためにもならないのです。親切とか、好意とかはそれらが外に向かって意思表示され、さらに現実の行為として他者に対して働きかけが為されて初めて、その意味を現し、それが偽りではないとき、初めてまさに親切とか好意とか呼べる実体となるのです。

私たちは愚かな戦争により、初めて本当の自由と人権の真の意味を知ることとなりました。戦後の日本国憲法はその意味を私たちに私たち自身によって知らしめることとなったのです。そして、壊れつつある、失いつつある現在の日本社会にとって、いまこそその意味と現実を問い直すべき時なのです。けっして東北地方に限らない、今の社会の直面するゆがんだ姿を見つめ直し、本来あるべきこの日本の社会を再構築し、これからの時代を生きるために、国土も社会の有り様も新生を図らなければなりません。これはこのごろ各所で、心ある人たちからもたびたび発せられる声と同じです。

弱い人をいじめない、絶対少数を虐げない、辱めない、貶めない、そう、どんな理由や原因が仮にあろうとも、決してそういった種類のあらゆる行為言動を認めてはなりません。救済と再生を必要としているのは地震と津波の被災者だけではないのです。だれよりも、何一つ、当たり前の人権と生きる手段を一方的に、考えられない暴力で奪われたり否定されている人たちすべてに救いと回復がなされなければなりません。不当で、あまりにも不合理で人間を否定するかのような蹂躙・排斥行為に対し、互いに手を取り合い、立ち向かわなければなりません。まず虐げられた人(たち)の回復を助け、希望を取り戻さなければなりません。どんな形であれ、およそ、暴力を受け容れても認めても野放しにしてもなりません。

基本的人権、これはそれを侵害し、認めようとしない者たちを明確に除いて、ほかのすべての人々に永久に、侵すべからざる神聖な権利として人類の歴史の中で文字通り、血をながして勝ち取ってきた成果です。これは普遍的な権利としてその濫用を戒めながらも、国家と人々の間だけでなく、個々人の、それぞれの人たちの間においてなおさら、不可侵の権利として共有し享有されるのです。なぜなら、国家とはその人民、人々自身によって形作られるものだからです。それを妨げるものなど、決してあってはなりません。この意味でも、あらゆる形態の暴力を排除しなければならないのです。

明日こそ、そんな思いと心の底からの切実すぎる願いと望みを私たちはその命に託します。そして、誰よりも私自身、この大地震の被災者とともに歩むべき道を創っていきたい、と願っています。理不尽な仕打ちをした自然のしかしその契機に社会をいまこそ見つめ直し新たな日本を創るために生きなければなりません。世界中から寄せられた義援金や心遣いを生かさなければなりません。新たな、人間らしく生きることのできる、誇れる社会を創ることこそ、その世界の人々の気持ちと期待に応えることなのです。まさに、人間であることを悦びとすることのできる人間尊重の社会を築くために。

山上の休日2011年05月15日 21時55分17秒

山稜の人々
朝早くから出立、麓についてよく知られた富士写ヶ岳に登りました。12名のパーティー、しっかりとした道をひたすら上ります。低いところでは花はまばらでしたが、中腹からは賑やかな花々、と、それに加えて人の行き交う道となりました。日曜で天候も晴れ、薄くおぼろだったり、雲も割にありましたが、とても暖かく、汗がぽたぽた落ちる一本道です。

7合目からはシャクナゲの群落で、今が最高の季節だったようです。濃い紅色の蕾、開いた花の桃色、そして別に白のシャクナゲ、あちこちから感嘆の声。途中でもイワウチワ、イワカガミ、チゴユリ、花の落ちたショウジョウバカマ、白く大きなタムシバ、たくさんの白いイカリソウ、まだ多いスミレの類、ハルリンドウかフデリンドウ、他にもいくつもの花々が咲いていました。三つ葉ツツジの美しさも特筆ものです。

山頂は賑わっていて、座る場所も無いくらいで登山道にも座り込んだり、兎に角山上の休日を楽しむ人々でいっぱいでした。暑かったのですが、とても楽しい休日になりました。和やかさと心地よさ、気持ちのいい天候、遠く白山を望みながら山頂には1時間、ゆったりとした山旅でした。このときばかりは感謝です。

私的生活の自由と秘密の厳守2011年05月17日 17時41分46秒

虹の立つ時
私たちは社会生活を営む上で欠くべからざる権利としてプライバシーの保護を求めることができます。これは明文化されていなくても憲法上、保障されているからです。そして、それこそ、私たちが現実に日常生活を本来なら平穏無事に送ることができる大切なよすがなのです。そして、誰かと話をする、それが公的に認められた関係であればそこにはその話や相談を厳格に守られるという、まさに自由の濫用からの自由が存在するのです。

午後、疑念をもったことについて法律の専門家に相談しました。無料の弁護士の相談日でした。もちろん、ですから、その内容も私の存在自体も秘密です。誰にもそれを暴かれることも、盗聴されることもありません。そして、その内容が外に万が一漏れたとしたら、それはその主催者と被相談者と知った者が責を負うのです。幸い現在のところ、明白な侵害事実はありません。

いつにおいても、私的生活の自由こそ、その人が安心して暮らせる第一歩だと信じますし、実際にそれぞれがその権利を奪われたとしたらとても生きてはいけません。決して、のぞき趣味や盗み取りのたぐいではすまされない、まさに生きるか死ぬかの重大な問題となり得るのです。誰もが、その私的生活の自由を守り、互いを尊重し合って生きていくことを願わずにはいられません。

気持ち悪さ以上2011年05月19日 08時39分36秒

破壊の道具
今日の『おひさま』(NHK連続テレビ小説)を見てはっきりとわかったこと、それは今でも変わらず残る悪習や悪弊以上のなくさなければならない習性です。陽子先生(主役)が子供を守るために身を挺して叩かれ、気を失って目覚めた後のことです。はじめに、これもよく見受けられる光景ではあるのですが、叩いた「鍛錬担当」の男性代用教員が謝るところはいいのですがそのあとに陽子先生が下手に出て『わたしがわるいんです』と言った途端に手のひらを返したように開き直った態度を取るシーン、そしてどんどんその悪びれたところを自らかき消すように自己弁護の主張をエスカレートさせるわけです。

そして次の決定的な問題です。夏子先生が呼びに来て教室を除いて目の当たりにした光景です。うまく同じように振る舞えない、できない子に「皆で」教・え・て・させていく。それからまた一緒になって同じになるまで「習わせる」、というおぞましいシーンです。廊下から見ていた陽子先生は涙目で拍手をしましたが、これは少し考えればぞっとする光景なのです。時代が時代とはいえ、現代でもまた、こんな心的な行動や暗黙の同意が為されることを心ある人たちは経験してきていると思うのです。同じでなければ、同じように振る舞えなければ、同調していかねば、それが「和」のひとつだ、とかいった習い性以上のものです。

どちらも、もはやしてはならないこと、決して認容も受容もしてはならないことなのです。誰もが同じに「和気藹々」と振る舞う、それがいいのだ、といった一方でのナイーブさのそれでいて決して素直に心から受け容れられない吐き気のする気持ち悪さ以上の排除すべき心の働きなのです。そう、いうまでもなく、私たちはこういった時代のドラマを鏡として鑑み、そういった行為言動が生まれないように自らを律し、さらにはその本質的な人の道や道理、人間らしい本来の情緒を自覚しなければ成りません。ほんとうは、決してやってはならないこと、そして何より、その「同調」をしてはならないことを認識することです。そうでなければ何一つ、学ばなかったことになります。それでは、血を流して築いてきたはずの戦後も3月11日後の新生も消えてしまいます。

命の値段~岩倉・少女自殺~2011年05月20日 17時49分37秒

植えられたナデシコ
愛知県岩倉市の自殺当時高校2年、16歳の少女に対する学校への賠償は約1500万円にとどまった判決でした。中学時代のいじめに対してわたしたちは社会的にこの家族に賠償をすべきです。学校に代表させて、もっと高額の賠償金を支払うことはせめてもの償いと思えるからです。確かに、直接的にはいじめに加担した周囲とそれに気づき対策・対処をすべきなのに怠った学校に責任があります。でも、そういった現実をいつまでも解決できないでいる一般の社会、そう、わたしたちにもまた、その社会的な責任があると思うのです。

少し思い起こせば、子供たちの自殺が相次いだ年がありました。そのときもまた、わたしたちは何もできず、その後もその連鎖や陰湿化、潜伏化に対してほとんど対応できていません。その本質的な理解と意識や思考、いえ、それ以前の人々の心の持ち様や道理・倫理といったものに対するあまりの鈍感さや子供たちを育てる意味を大人たちが十分理解していない、いえ、理解しなくなってきた社会の貧しさの広がりが根底にあるのです。

ひとりをよってたかっていじめる、そんな最低の行為に目をつむるか知らぬ顔、それどころか一緒になって陰から、背後から心ないことばを投げかけたりする行為に無感覚の人たちが増えているのです。どこかで、誰かがはっきりと声を上げて変えていく、そんな勇気が求められています。震災によってはっきりと多くの人たちが社会の変容に気づき、新たにしたい、といっています。そしてそれこそ、彼女が命をかけて訴えた社会の変革なのです。お金では償えない、命を救うにはまず、わたしたちが社会をこころあるものに変えなければなりません。

まず無くすこと2011年05月21日 18時41分52秒

八重のキンポウゲ
キンポウゲは野原や山に生えているのは一重の離弁花ですが、畑にはその八重の種がほおっておいても春から初夏に生えてきます。園芸品種だ、という人もかなりいて、本当のところはわかりません。実際、ヤマブキもまた、八重の変種が普通に野山で見られるからです。ええっと思う向きはおおいかもしれませんが、これもまた、運ばれていったり持ち込まれてしまった結果だともいえます。それなら、自然でないものは無くすべきか、これもまた、今では議論の元になるのです。

でも、卑怯者はなすくべきです。亡き者にできないのなら、無くすことです。三つの戒律、というものがあります。第一に、陰口をたたくな、第二に、卑怯なことはするな、第三に、人を欺く嘘はつくな、です。こども以上に、大人に対していわなければならないところが悲しいのです。先日も書いたように、弱いものいじめはその最たるものです。大勢で、抵抗できないようにしてからひどいことをしたり、それ以上に繰り返し言ったりする、精神的な虐待行為に理由も言い訳も通りません。許されないのは明々白々ですが、それを否定するどころか、正当化をして当然視する最低の連中が現実にいるのです。何一つ、成長も進歩もありません。

町の将来をどうしようか、といった議論の前に、大前提としてのその住民の意識や人格の問題があります。教育の失敗は後でどう取り繕おうとしても取り返しがつきませんし、そもそもその価値がないとさえ思える場合もあるのです。人の道に反する行為・言動に対してどう向き合うか、それは何なのか、自立とは何なのか、おとなになるとはどういうことか、そういった基本的な倫理以前の問いをやり直す必要をわたしたちは感じなければなりません。自分たちのさまざまな利益追求ばかり指向する情けない人たちにどう諭せばよいのか、何か、どこか、決定的に欠けています。人間であること、その根源的な問いかけさえ必要なのかもしれません。

命萌える季節2011年05月22日 17時26分27秒

スダジイもえたつ
今朝はまだ昨日の暑さが残っていて、歩くと汗が出てきました。蒸し暑さやむせかえるような暑気をさえ感じさせます。まあ、日課の早朝ウォーキング、いつもたいてい楽しいのです。外を歩くのは私自身にとっても生きていることを再認識できる時間ですから。

風のない静かな空気に漂うのはこれもまた、むせかえるような匂いです。植物の性、とは時折耳にしますが、これもそう。ブナ科の多くはこの時期、その花を一斉に咲かせます。その命を語り継ぐために、精気を放出するのです。人によってはその匂いはいやだ、というでしょうけど、決してさわやかでもかぐわしくもないその匂いは一方で生きている証、動きはしないからこそ、その地にしっかりと根付いた強さを文字通り、身をもって示しているからです。

情けない人たちが多い中、この土地にもその命を燃やして生きる生き物たちがいます。決して怯まず、そのいのちを輝かすことこそ、たった一度の人生のかけがえのない姿です。誰にも渡したりはしません。

咲きし花は2011年05月24日 10時41分50秒

アザミは盛り
きのうから道の傍らに目をやるとそのアザミの多さに目を惹かれます。朝早いと色合いはおとなしく、日中の鮮やかな濃い紫とは異なった風情です。それでも、この花をみていると、「あざみの歌」(横井弘詞・八洲秀章曲)を思い出します。思わず口ずさむ気持ちはやはり、その歌詞の通り、女性を想う心のなせるところのようです。遠い春を思うとき、その辛さは誰と分かち合い、誰に伝えましょうか。

それにつけても、困った人たちには悲しくなります。生活のため、その名目で為される、建設という名の破壊、誤りを認めるどころか、聞く耳も持たない態度とごり押しや拡大さえ厭わない姿勢、とても人間とは思えない身勝手この上ない言動、荒んだ環境や心を当然視するかのような無感覚、視野や了見のあまりの狭さ、などなど、挙げればキリがありません。どうしてこうなったのか、なぜ直そうとしないのか、私には理解できません。

翻って、現在の日本国内の状況に目をやれば、とてもそんな幼児たちにかかずらわっている暇などない、と気づかされます。頼りにならない政府やまさに身勝手な企業の為せる所為の意味のなさ、遅々として進まない現状を見聞きするにつけ、もっと現実に進展させるためにはそんな暢気な気持ちではいられない、と身震いさえさせられます。このままほおっておいたのでは社会そのものが廃れてしまいます。とても、力強い日本の復興・新生などおぼつきません。

希望の輝く黄色2011年05月26日 09時14分00秒

道ばたのキンポウゲ
先日八重のキンポウゲをアップしましたが、今日はまだ残っていた道の脇に咲くキンポウゲの写真です。ご覧の通り、花びらは分かれていて見事な黄色です。山吹色とは言いますが、キンポウゲの方がより黄色が黄色らしく、ヤマブキと比べると真っ黄色に近いのかもしれません。家の八重のそれはまだ花盛りで、時期の違いが時季を造っているのでしょうか。でも、どちらも、暖かな色ですよ。早く咲く野辺のキンポウゲは春を知らせてくれて嬉しいというところもあり、日射しを浴びた輝きはまさに金色の輝きです。

同じく、希望は持ち続けます。何も妨げるものなどありません。祈り続けます。一日も早くかなえます。

野茨の美しさ、その陰に2011年05月27日 08時40分00秒

野茨の花
数日前から朝の行き帰り、川縁からのいい香りを楽しんでいます。その香りは、ノイバラ(野茨)です。今は園芸品種のバラも多く咲いていて、近所の前庭のかなりの数の鉢植えのバラも見事に花をつけて静かな落ち着いた夜にはとてもいい香りがします。でも、わたしはこのノイバラの芳香をより好みます。漂うその誘いはどこか詩的で可憐な乙女の姿を想像させます。もちろん、棘があり、何度も痛い思いをしましたが(実在の女性ではありません)その白く純粋な存在に惹かれるのはわたしだけではないはずです。

だれしも、いえ、わたしはなおさら、そんな清純さをいつまでも、と願わずにはいられません。さまざまな感染症を蔓延らせたのは何が原因だったでしょうか。人々を、決して女性だけでなく、傷つけ、あるいは死に追いやったのはなんだったでしょうか。AIDS患者は過去最高を記録した、と発表されています。実数はさらに多いはずです。増え続けるのはその証拠であり、隠れた感染者が後を絶たないからです。これもやはり、留められるのは教育をおいてほかにはありません。

人類の命をかけた闘いの末に勝ち取ってきた「自由」の意味をはき違えてしまっている現代において、その命を奪う病や理不尽さをわたしたちはどうやって潰えさせることができるでしょうか。一方で蹂躙し、一方で野放図な濫用を見て見ぬふりをしてきた人たちにその責任を問わねばなりません。本当の自由、決して恐れない、怯まない自由をその礎として、また人類の敵となりつつある社会の病理とともに病にたちむかわなければなりません。