退院2011年06月07日 23時00分16秒

病院の夕食
ちょうど一週間の入院も今日までで、退院してきました。夜になりました。でもまあ、わたし的にも「奇跡の生還」ではなかったか、と思えるのです。思えば、近くの医院での誤診、変だと感じて時間外・救急外来まで痛むおなかを抱えながら這々の体で辿り着いて診てもらったら、急性で危ういところでした。翌日、といっても検査などがすんだのはそうなっていて、その日に手術、大げさかもしれませんが、一命を取り留めたのです。

病院は飲まず食わず2日、絶食は合わせて3日、を除くと、とりわけ看護師さんたちの細やかな心配りと丁寧な看護のおかげでそれなりに過ごせました。帰り際は少々冷たかったかな、と今でも気にかかってはいるのですが、またお世話になることにもなるかもしれませんので、とにかく今は感謝です。まだ痛みますが、やっと一息ついているところでしょうか。

この間、相変わらず政治の世界は人々の苦しみを知っているのか、政争に明け暮れているようです。どこか、ここも変です。誰か気づいて、大声で直言し、とにかく今は大手術の時だと言うことを政治家と官僚たちに自覚させなければなりません。もたもた・ぐずぐず・ごにょごにょしている場合ではありません。

まだ様子見2011年06月08日 20時21分42秒

朝のモンシロチョウ
まだ切った辺りが少々痛み、ふつうには歩けません。でも支障はないので必要なことはすませました。そして帰宅してどーでもいいことをしていたらなんだかとても眠くなり、2時間ばかり汗をかきながら寝ていました。薬のせいかどうかはわかりませんが、ちょっと疲れたかな、とは感じます。

今朝は気温も17℃を下回り、涼しげな、でも湿度は高めの朝でした。一頭のモンシロチョウが畑を飛び回ってはとまりどまりしていて、静けさの中に動あり、で生きているという感覚を取り戻せます。曇り空にも緑の鮮やかさが際立つ時間です。そのあとは次第に晴れてきて、日射しもあり、じきに夏みたいな外になりました。

しかしながらまだ本調子とはいかないようで、なかなか取り組むべきことには取りかかれません。一週間の隔絶的な生活から現実に帰って、新聞の記述に得心していたのです。政治のごたごたはどうも、原子力との癒着や推進・維持のためとか。自民党の思惑が透けて見えるようです。情けないひとたちです。たとえ彼らに代わっても、いえ、代わったらもっとひどくなる、と強く感じさせられました。

タンポポの行方2011年06月09日 20時45分51秒

これからのバラ
生きるために生きている植物を使う、それは目的が手段を正当化する、という一例でしょうか。入院中に読んだ新聞に、小学生がタンポポの種を福島県に送り、セシウムを吸収させて刈り取ろうという話がありました。フィトレメディエーション(Phytoremediation)のひとつで、まだよく調べていませんが、選択的に取り込む割合が高いとのこと、それはそれでいいのですが.....。

国内の多くに今や支配的になりつつあるのは、萼が下向きにめくれている見るからに見苦しいセイヨウタンポポです。この種は確かに大量に取れますが、これを使うのはわたしは賛成できません。というのも、このセイヨウタンポポはいわゆるクローンで増えるタイプであり(高校の生物の教科書にもあります)、季節の見境なく蔓延るのです。放っておけば確かに増えて吸収してくれるかもしれませんが、後の始末や面倒を見なければ大変なことになってしまいます。

在来種は今でも残っています。わたしの住むこの土地でも数種、山あいや鉄道沿線にさえあります。他にも、田んぼの畦などにも残っているのもあるのですが(いくつか種を保存してます)、その生存や継承を危ぶませることになりかねません。これは日本固有のタンポポの種の保存にとって脅威となり、種でしか増えない在来種の保護と育成は焦眉の急となっているからです。小学生にも区別できますから、このあたりを考えて行わないと、ただでさえやっかいなセイヨウタンポポをややもすると人為的に増やすだけでなく、現実的には放置される割合が高くなり、放射性セシウム(137Cs)を却ってばらまくことにもなってしまうからです。

目の覚めない人たち2011年06月11日 11時45分13秒

雨に濡れたウツボグサ
福島第一原子力発電所事故の惨状を目の当たりにしても、まだ目が覚めない人たちが永田町に多いようです。悲しむべき、といってはいられないのです。今すぐ、国内の全原子力発電所の廃止を決定し、早急な代替エネルギーの稼働と開発とおそらくは見切り発車のようにとにかく前に進めていかねばなりません。前にも記事で触れましたが、どうも、特に自民党の連中はいまだ「国策」の原子力とその産業化、周辺の利権などに固執しているように見えるのです。

菅直人首相が不適当な人物であることはわかりますが、だからといって、浜岡原発の停止を決定し、とにもかくにもいったんその愚策・愚行に歯止めをかけたその功績はもっと評価されていいと思うのです。いえ、むしろ、他の人ではまたこの国難に及んでもなお経済的にも見合うはずのない原子力に頼ろうとする愚かさに気づかないばかりか、一層の難儀を国民に押しつけることになりかねません。却って、菅首相の方がその意味で期待がもてるようにさえ思えるからです。

翻って、原発銀座のわたしの住むこの地域では、立地していない中心都市では「脱原発」を議会で決議していますが、肝心の立地町の町長はこの期に及んでもなお、原発は必要、だとか、安全性を担保にできるなら、などと妄言を吐いているのです。ものが見えないのでしょうか。あきれるほかにありません。対立候補もでないままに無投票当選した町長は完全に自分自身を見失っているかのようです。どの人もこの人も、それこそ、「現実」を直視して今すべきことを決断すべきです。

市民サーベイ2011年06月13日 11時43分00秒

テイカカズラ
もはや多くの人たちは政府や東電の発表を心から信じてはいないようです。それで、大きな影響を受けている地域全体の放射線地図を定期的に作成してその時間変化を追っていってはどうかと考えます。その基礎として、前の記事にした、放射吸収線量測定の標準的なプロトコルを考えてみました。その第一として、

素人でもできる放射線測定

にある方法で、たとえば、地表面での接地の場合の値、地上1mでの空間線量、の2種類を各地ではかって収集したらどうかと思うのです。

もちろん、測定器により、その器差は当然ありますし、放射線の違いとエネルギー応答による差異とばらつきはでてくるのですが、それは使用機器の特性を調べて統計的に補正することができます。全体として、かなりの確度で放射線量の分布とその変動をとらえられるとおもうのですが。

これが何を意味し、どういった価値があるのか、と問われれば、それはきめ細かな、詳細な放射能地図をかなりの密度で作成できて、日々の変動から福島での作業や起こっている核反応の実態を把握するのにかなり役立つのではないか、ということなのです。これは収束に向けての対策に反映できるはずですし、事後の対策、つまり、どれほどの放射性物質のどのような除去をすればよいか、といったことに大切な基礎資料となり得るとおもうのです。

よくできた女2011年06月14日 09時28分19秒

よくできた女
バーバラ・ピムという英国の作家をご存じでしょうか。この作家の著作を初めて読んだのはもう15年以上前になります。ペーパーバックで、邦訳のない、Academic Question、という題の小説でした。薄めでしたのでよく読めたのですが、その「語り口」の良さ、流れ、会話を楽しめたものです。邦訳としては、表題のともう一作、『秋の四重奏』(Quartet in Autumn)があります。訳は違うのですが、こんどのこの作品の方がより受け入れやすいと思います。

一人の未婚女性を通して描かれた宗教道徳もあった時代の良き風景がとても好ましく、それでいて人間の姿はそのようなものである(あるべきか)と思えて、肩を張ることなく楽しめる作品です。清潔さや清廉さを基調としていたと読み取れるそれはそれの英国のかつての社会の有り様を会話を中心として安心して読み進められるのです。どろどろとした風俗やいかがわしさ、人間の本性を衝くような激しさはない分、本来の社会の人間の形を教えてくれているようにも思えます。

こういった素性の良い、「できの良い」小説は最近少なくなってきて、国内の若い作家たちの小説はとても「安心して」読めません。わたしの知るところでは、赤川次郎の小説~ジャンルは全く異なりますが~に似た雰囲気があると感じさせられます。深く求めない、あからさまに描写していないところに奥ゆかしさのようなものを見て、今では他とは違う、でもとても秀逸な文章と静かな変動によって社会の側面を見せてくれた、ある意味、心安らぐ作品として、日本でもそのような小説がもっとでてくれないかなと期するところです。あ、そうそう、朝吹真理子さんの作品にはそんなところがありますが。

意思決定の方法~イタリア原発国民投票~2011年06月15日 15時43分56秒

ホタルブクロ
14日に出たイタリアの原発再開を巡る国民投票の結果は実に明確な「否」の意思表示でした。原子力発電は、いわば、「時代遅れ」な2次エネルギーである、との94%を超える反対票はいかにフクシマが大きな影響を与えたか、という好ましくない日本の衝撃と、その政策への国民の参画のあり方を如実に示すものだったわけです。複雑な問題を孕んでいる、という言い方をドイツの先例ではしている方々も多いわけですが、それ以前にやはり、国家の施策のあり方に対する国民の関わりに一つの有効な方法を与えた、という点で注目すべきであるわけです。

小さな自治体などではしばしば重要な施策に対する住民の意思表示が住民投票という形で為されうることは日本国内においても見られるところです。すべてに渡っていちいち問うことはできないとしても、ときとして、まさに大げさではない、命や生活のかかった決定的な問題にその住民、あるいは国民全体がその是非を示すというのは自ら決定する権利の行使として認められるはずです。もちろん、まれにでもその多数意思の誤りなどはあり得ますし、その方法実現までの過程に障害や課題はつきものです。しかし自国、自治体の運命を左右しかねない決定的な意思決定に誰も加わることができないとしたら、それもまた、民主主義の意思決定の過程をないがしろにするものとも言えるのです。

しかるに、わたしたちの国はどうでしょうか。身勝手な「国策」の遂行によってあってはならない破壊と疎開を余儀なくされ、存在していた共同体は分散・消失の危機にあるのです。フクシマ第一原発の事故は地震と津波には帰することができません。これはまさに政策決定に致命的な誤りのあった典型的な事例といえます。そして、未だにもたもたして一向に収束の気配すら見えず、却ってその被害を広げる結果となっています。一致して当たらなければならない事態に直面しているにもかかわらず、自民党を中心とした政治家たちはいったい何をしているのでしょうか。彼らにこの国の重要な政策を決定し、遂行するだけの能力も資格もない、と大多数の国民は考えているのではないでしょうか。政争に明け暮れている場合ではありますまい。何をどうするか、そして行動するためにはどうするか、今為すべきを誤ってはなりません。

ホタル発生2011年06月16日 17時08分40秒

蛍の光
一昨日から、いえ、たぶんもう少し前からでしょうけど、ホタルが旧道の脇の水路上に現れました。おとといは4匹、昨日は3匹でした。いかにも少ないのですが、三面張りの水路にいたこと自体が奇跡です。他とは異なり、いた辺りは草が覆い被さっていて刈られていない岸は湿り気がありました。水そのものは割にきれいで(一応、山からの水ですので)そのあたりも生息を可能にした要因かもしれません。

昔はうちの畑の横の小川にもたくさんいたのですが、めっきり減ってしまって寂しい限りです。でも数はいなくともそうやって細々とでも生存しているのは喜ばしいかぎりです。かろうじて生き残っていた、ともいえるのかもしれませんが、急速な人工化の中で生物自体が数も種類も大きく減らしていて、目にする機会もとにかく少ないのです。春から夏は生き物たちの天国であるかのように飛び回っていた時代が懐かしく思い起こされます。

今は環境保護、保全だとかいって盛んに活動されている人たちも多いのですが、現実は身近にいない、という致命的な問題を抱えています。子供たちも野外での遊びや探検、自ら触れあう命の姿を実体験していません。社会の変容と環境の一方での急速な悪化、いえ、喪失が招いた生物の生存危機に直面してなお、生きるためだとか、生活のためだとか言ってこの田舎でも破壊の進行は目を覆うものがあります。どうやって食い止め、教育を為し、意識の変革と社会の新生を図っていけばよいのか、日々悩むところです。

「集団ヒステリー」発言2011年06月17日 16時29分22秒

ノビルの花
イタリアの原発国民投票の結果を受けた、自民党の石原伸晃幹事長の発言はそれこそヒステリックな、いえ、確信犯的な反動の主張と同じくするところです。誰もが、『もう原発はいらない、ごめんだ』という気持ちになったのは決して単純で感情的な反発や情緒的な反応ではありません。イタリアの人たちだけでなく、わが国内の人々もまた同様に、福島第一原子力発電所事故を目の当たりにして抱いたのは同じ思いだったのです。ドイツでも言われていた、「複雑な問題」として原子力政策をとらえるのは基本的に誤りでしょう。むしろ反対に、その方法や事故の現実を直視すれば明白な意味を知ることは容易です。その意味においても、石原幹事長の発言に適切な部分を見いだすのは困難です。

すぐに、社民党の福島党首が批判をしましたが、もっと、他の政治家たちもその発言はもとより、その理由や出づる源から石原氏のような発想・思考に対して厳しくあたるべきだったのです。一日待ちましたがもう忘れられたかのように静かです。今もたもたしている政府もまた、もっとその行動や判断の貧しさと誤りに自ら顧みて石原氏の発言の真因について猛省すべきなのです。政治家たる者、そんな姿勢や態度でどうして国を、社会を導いていけるでしょうか。あの小泉純一郎元首相ですら、原発を推進したのは誤りだった、と認めているのです。こんどの菅首相おろしもまた、おなじ文脈からなされた、との報道もまさにそのとおりだ、とうなずける石原氏の発言なわけです。

福島から遠く離れていて直接影響は受けてはいませんが、こちらもまた、多くの原発を抱えていずれは福島と同様の憂き目に遭う、と想像されるこの地域に住む以上、無関心など考えられませんし、福島の地はおそらくは二度と帰ることのできない土地と成り果てるのは目に見えている以上、イタリアの人々の是非に関する正しい認識をそれこそ福島の住民や元住民と同様に永田町の人たちにも持ってもらいたいと願うのです。いえ、同じ思いを抱くことこそ、この事故の収束へ向けての方策に真剣味が増すと考えます。黙っていてもどんどん放射性物質が産生し時として放散して周辺環境をどうしようもないものにしてしまう、そんな時に、そしてそんなものになぜいつまでも執着するのでしょうか。石原幹事長には五感がないのでしょうか。彼にこそ、『現実を直視しなさい!』と叱ってやりたい気分です。

維持ではなく新生を2011年06月18日 11時00分00秒

蛍の光2
石原伸晃幹事長だけでなく、その父親である石原慎太郎東京都知事もまた、「現在」の日本経済の維持のために原子力発電に代わるものはない、かのような発言をしています。代替エネルギーではまかなえない、というよくある主張ですが、そこに根本的な誤りを指摘しなければなりません。今回の大震災でわたしたちは何を学んだでしょうか。何を感じ取ったでしょうか。現状、いえ、過去のやり方や構築物、対策、仕組みでは何も防ぐことすらできなかった、その一点だけでも、すでに石原ファミリーの発想や思考では(同じく財界や自民党の)やっていけない、という認識や覚醒に至らない浅はかな視点にもはや未来はないのは自明です。

とにかく、原発はすでに過去の技術なのです。そして、いまだ未完成の、いえ、安全性はもちろん、経済的にも全く成り立たない遺物であることを一般の人たちははっきりと理解したのです。このまま運転を継続することも、新設もあり得ません。どうしようもない放射性廃棄物の処分には気の遠くなるような時間と労力とお金がかかるのです。よく言われる原発の3つの大問題、廃棄物・安全性・経済性、どれをとってもとても社会的に許容される発電方法たり得ないのです。福島第一原発の事故の賠償金だけでも兆のお金がかかります。そして二度と戻れないかもしれない、そんな土地を造ってしまったのです。

最初は苦しくとも、私たちはその持ち前の工夫とやり方で新たなエネルギーシステムと大電力に頼らない社会システム・仕組みを構築していかなければなりません。今までの仕組みや方法では立ちゆかない、その事実を自然から突きつけられたのです。ここで何もわからない、目覚めないとしたら、それこそ、日本経済の維持どころか、日本自体、なくなってしまいます。大転換とこの地震国に生きている、というはっきりとした認識を新たにすべきです。単に復興を図るだけではない、新生を目指すのだ、という強い気概をこそ、政治家たちにはもってもらいたいのです。今こそ、新らしい世界の主導者となる絶好の機会なのです。