裁判所の無感覚2011年05月31日 09時30分05秒

卯の花(ウツギ)
きょうの新聞1面下に書いてありました。「新品」は常に期待はずれで買っては買い替えての繰り返しだ、と。実際そのとおりだと、ついこの間購入したZ68チップセットのマザーボードでの動作を見つめています。どこか変なのです。売り物のはずの動画で止まったり飛んだり複数のOSで動作異常になったりなどなど。今までと構成やOSは変わっていないのですが、造りに問題があるのかな、と。

裁判所もまた、同じように感じます。新しい判事を迎えても、最高裁は奇妙な判決をだしました。君が代の起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」で特定の強制・禁止ではなく、思想・良心の自由を直ちに制約しない、と下されたのです。特定の歌を参列者が一緒に起立してまで歌う、などというのを儀礼的ですませられるでしょうか。どこが「強制でない」のでしょうか。そもそも、全員が合わせて同じことをさせられるその「儀礼」に耐えがたい苦痛や屈辱、屈服感を感じないとしたらどんな感覚なのでしょうか。そもそも、全国民が心から、腹の底から誇りと自信を持って歌える歌でしょうか。

判事の皆さんは常に上から見下ろすように判決を下す立場です。絶対的に正しいはずがありません。ましてや、憲法に保障された基本的人権の最も大切な部分である内心の自由さえないがしろにしていい、そんな風に聞こえる判断です。敗戦で変えた憲法と変えなかった「国歌」は矛盾しています。もう、君の御代ではありません。民主主義国家なのです。菅内閣だけでなく、今の最高裁もまた、替え時かもしれません。過去に目を閉じ、現在にも未来に対しても盲目となっています。違憲審査を私たちがその当たり前の感覚で為すべき時かもしれません。