破壊される古里 ― 2007年09月01日 21時25分32秒
いうまでもなく、山を削り、木を倒し、田畑をつぶし、………で荒れてしまいます。高架になる部分が多く、それを想像するだけで、見るも無残な景観破壊となることは目に見えています。やみくもに通す、その意図が丸見えですから、目に見えない破壊・汚染・騒音・振動などの「公害」もまた、かなりの影響を及ぼすのは間違いありません。
最初から、自動車道としてですから、その建設に利点も長所も少ないのです。もともと、渋滞の激しかった国道の分散を目論んで別にすでに一本の道があり、東部にはまた別のバイパスが今にも通るところです。本来、生活道路としての国道と別の道路を少なからぬ住民は望んでいたのですが、あまり歓迎されない自動車専用道路となったのです。その建設自体と供用された後の障害・実害を考えると、バランスは明らかに取れません。いつもこの種の建設計画には疑問を感じますが、実際、どうしてこうも進めたがるのか、また、なぜもっと影響を考えて、その調査・評価を行い、一般によく知らしめないのか、情けないほどに一方的です。もっと、地域住民は賢くならなければなりませんし、声を上げなければいけません。圧倒的な力に対峙すべきです。
列を成す光芒 ― 2007年09月02日 21時14分27秒
はっきりとした街灯の姿では面白くもなんともないわけで、ぼやけていて初めて見えてくる形と点列の妙を知るのです。その点き方、つまり付き方の高低と水平位置の違い、街灯自体の種類の違い、距離による違いなど、その集約としての一面の撮像が多くを物語ってくれています。
計画的に、整然と作られていたとしたら、そういった面白さは見えてきませんし、一様に明るかったり、同じようなものばかりだったとしたら何一つ、見出せなくなります。それはあまりに、つまらないだけでなく、ひどい不幸であり、悲しい、均質化された社会です。そうさせないために、私たちは個々の違い、飛び出た異質、変わった姿、異なる存在をすべての人々の間に積極的に認め合い、尊重し、育てていかなければなりません。同じような人間が同じように生きる、それを当然だとは決して考えてはなりません。山の下のコバキボウシ ― 2007年09月03日 21時09分25秒
やたらアリが多く、ちょっと障りますが、今が盛りと薄紫の花を咲かせています。この色ではまた、ツリガネニンジンも今です。こちらはいかにも野の花そのものでとてもいい感じです。コバキボウシはどうも美しさ、きれいさに欠けます。大柄な感じの花自体、それほどに好ましさは感じられません。
好き嫌いは別にして、しかしながら、この場所にはこの花が咲いていた、これからもそうであってほしい、そう望んでいるのは確かです。自生する花々が消えてゆくのは悲しいものです。いつまでも世代を繰り返していてほしいのです。そんな人生、環境であってほしいのです。罪の意識 ― 2007年09月04日 20時48分33秒
罪になるかどうか、そう考えて「悪さ」をする人など、いないでしょう。でも後で、後ろめたさや後悔、悔恨の情を抱くことはごく自然で、それこそが、その行為の、法律云々する以前に、また関係なく、善悪や是非を決めるところです。その心がない、あるいは育たなかったとしたら、その人に為されたすべての教育は無駄だったといえます。
もっと問題なのは、より弱い人、抵抗できない人に対する著しい加虐行為です。これは人のお金を掠め取るよりもはるかに深刻で重大な罪です。より、良心をはっきり問われるのです。子供であれ、大人であれ、ひとりの無抵抗で弱い人を徹底的に「いじめる」あらゆる行為、言動は許しがたいものです。ましてや、自分たちの醜さ、幼さ(成長しない不熟)、身勝手さを正当化せんがために継続的にかつ畳み掛けるように行われる加害行為は決して、許されるものではありません。罪の意識を徹底的に隠し、抑え、封じ込める、あるいはうっちゃる、とんでもなくおぞましい悪意です。とんでもないスーパー店長 ― 2007年09月05日 20時58分02秒
そもそも、万引きしたかどうか、をスーパーの店長が勝手に決められるところではなく(そんな権利や権限が誰にありますか)、ましてや、罰を加えていいわけがありません。まさに、私刑ですが、それも暴力です。刑事罰でもそんな刑はありません。何様のつもりか、という以前のその人(店長)の人間としての質にかかわることなのは明らかです。しかも、ぐったりするまで暴行したなどというのは、暴力団そのものでしょうし、ごみくずのようにほっぽりだして捨て置いたなどとは、論外です。
「懲らしめのためにやった」とは恐れ入ります。恐ろしい高慢さであり、一方的に判じ決めたら何をしてもよい、などと考えること自体、おぞましい態度です。でもこの店長に留まりません。たとえば、大学教授、たとえば会社の管理職、たとえば、指導・監督する立場だと嘯く幼い連中など、本質において変わらない者たちが結構います。そういう者たちこそ、わからせなければなりませんし、懲らしめなければなりません。何一つ、分かっていないのですから。ホツツジの花 ― 2007年09月06日 21時36分11秒
ツツジに似ているとは思えませんが、その花は特徴的で、まず目に入るのは三裂になった幅の広い四角い花弁です。その中、6本のおしべ、1本の長く突き出ためしべがあります。直径、5~6mm程度ですが、湾曲して反り返った形はすぐに記憶に入るでしょう。背が低いので目立たず、偶然見通して見つけたのですが、ホツツジとはいかに。
小さくとも、低くとも、その存在を顕示して生きている姿は立派です。周りの草木に埋もれながらも譲らない精神こそ、樹木の誇りでしょうか。主張を持ってその存在を知らしめる、あるいは生を主張する、そういった姿勢こそ必要であることを教えてくれているようです。どんなに周囲が覆いかぶさってこようとも、負けないで、という屹立(大げさか)した姿を求めていかなければなりません。萩の秋 ― 2007年09月07日 21時07分32秒
写真はもひとつで、中心に花がきていませんが(しおれた花がある)その雰囲気は出ているかと思います。ハギが道に覆いかぶさるようにおりでて、その枝を揺らしながら光の中で豊かな花を咲かせているのは秋の始まりと思わずして何を思うのか、と問われるところです。
これからまた、秋の花の季節に入り、夏より彩が豊かになるころです。さらに実のなる季節になると、にぎやかなること、と想像します。人生も豊かな実りあるものにしたいといつも願うわけですが、障害や妨害ばかりでままならぬ実生活からちょっと逃避も穏やかになりつつあるはずの光の中ですごせるのです。ハマゴウの季節 ― 2007年09月08日 21時44分21秒
夏も終わり、まだ暑いながらも季節は確かに変わろうとしているようです。でも、まだ夏の花もしつこく咲いていますし、その数、種類も少なからず、異様といえば異様です。
むっとする海岸の暑さにもかかわらず、おかしな連中がキャンプさえしていますし、北よりで波も高めの中、釣りをしています。真昼間では釣れやしないのに、と思ってしまいます。自然も、人も、社会も、おかしくなってきています。平然と、「悪さ」をしても悪びれさえせず、弱い人には暴力を振るい、脅迫まで平気でします。そんな人間たちの横暴、傲慢が招いた異変なのですから、簡単には戻りません。とまるモンシロチョウ ― 2007年09月09日 21時30分54秒
とりたてて水分を求めたわけでもなさそうで、ちょうどいいゲンノショウコの白花に取り付いていました。ほかは、たとえばヌスビトハギ、ミズヒキ、その他細かい花ばかりで、吸蜜できそうなのは道端ではゲンノショウコぐらいだったからでしょうか。
休む場所より甘い蜜の花に、と思うのは私たちもまた、同じでしょう。でもそう判断するのは何によっているのでしょうか。その時々でその場所で、特定の花をどう区別しているのでしょうか。その行動を決めているのはなんでしょうか。「意思」というものはあるのでしょうか。そういった「何か」があるのでしょうか。休耕田の中のハス ― 2007年09月10日 21時04分11秒
広さにして畳3枚程度の部分ですが、ハスが緑の大きな葉を揺らせています。なぜここにハスがあるのか、あるいはわざわざ植えてあるのか、かなり疑問です。こういった大柄な花はさほどきれいでもなく、目を引きますが自然の美しさとは別個のもの、といった印象を受けます。きっと、お寺を思い起こすからです。
休耕田は、このところの降雨で水が付き、沼状態です。トンボが群れたりしますが(ギンヤンマも現れた)、もったいない気がします。農作業の労苦を考えると、その田を転作して畑作地としての耕作を促すのも気が引けます。やっているのはほとんど、お年寄りです。ハスはその先を読んでいたのでしょうか。悲しさを感じさせます。
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