「もう」も「めえ」もない2010年02月06日 20時58分01秒

冬の猫
さかりのついた猫たちでなくとも、この寒いのに訳のわからない「ことば」(多分)をなにやら言いながら雪道を通ったりする輩がいます。実際、何をしにくるのか、理解に苦しみます。私たちは、言うまでもないことですが、人とは対面し、対話をすることで互いを知りまた理解しようとします。そうでなければ、何の関わり合いも生じません。これは自然の摂理でもあるのです。

何の原因も理由もあるはずのない、無関係の赤の他人の私生活に立ち入る権利は誰にもありません。ましてや、何かを決める権利など、どこにもありません。ですから、どこにも、「もう」それはない、とか、「もう」これでしまいだとか、「もう」関わりがない(最初からあるはずない!)などと言って勝手に決めつける理解不能な者が湧いて出てくるなど、全く不可解ですし、幽霊なら消えてくれ、と思います。ばかげてます。それぞれに、それぞれの人生があるのです。選択も決定もそれぞれになされます。

ただの一度も起こった試しのない、あるいは何かを示す証も実態もない、そんな虚実さえ判断不能の「ことば」(あるいは意味不明な縦波)など信ずるに値しません。何一つ、ありはしないのですから。耳にすることなどしてはなりません。それはまさにゆがんだ空間です。