幸せになるために2011年01月04日 09時01分01秒

善良で誠実な人々が、もちろん、私も間違いなく含めるとして、かけがえのない人生を幸福に過ごすために必要なのは何でしょうか。何よりもまず、すべての束縛からの自由とすべての普遍的で基本的な人権の享受でしょう。そしてあらゆる恐怖や脅威とは無縁であることです。現代の日本において、それらは確実に保証されなければなりません。誰にもあるあたりまえすぎるくらいあたりまえのことなのです。

さらに、幸せとは、年齢や社会的な地位、経済的な高低などに関わりなく、男女が出会い、契りを結ぶことです。互いを尊重し合い、認め合い、支え合う、そして喜びも悲しみも分かち合いながら睦み合い、助け合って明日を築いていくことに他なりません。それには縁が必要です。縁結びには心ある人たちの手をさしのべる暖かな気持ちが必要です。それには無関係な者たちは全く用はありません。直に接し、ことばを交わして知り合うことからすべてが始まります。もちろん、縁があるならそこから出会いあるいは知り合うことから始まります。

健全な社会を人々が協力して築いていくその過程を大切にしなければなりません。何より、積極的で進歩的で前進するポジティブな行動こそ求められるのです。前向きの、建設的なことばならどんどん発し、人々の心に訴え、その高揚に資するものでなければなりません。

人間であること2011年01月06日 08時56分05秒

冬の夕暮れ
個人ひとりひとりはその私生活を保たれ、その情報は厳格にその人に属して守られなければなりません。そして人として生きるとはその人間性において真っ当であること、人間らしい感覚、感情、情緒をもち他者に対しても同じ態度と姿勢を保つことです。他人の私生活に土足でどかどかと踏み込むような行為は許されませんし、傷つけたり、ましてや蹂躙することなど決してあってはなりません。何より、基本的にその関係性は直接的な接触と対話に基づくものであり、一方的で身勝手な思い込みや決めつけ、ましてや抑圧的な言動や暴力的な(あらゆる意味において)行為は絶対に認容できません。

例えば、私の私生活は基本的に自由です。だれからも強要されませんし、剥奪されることもあってはなりません。見てもいない、知りもしない赤の他人によって人格や人生を決めつけられることなど絶対に認められません。そういったことを意図しただけでもその者たちは社会的に許されず、排除されなければなりません。これはあたりまえのことです。それが理解できない者に生きる権利などありません。

私が今求めているのは真っ新な出会いであり、それを妨げるものなどあってはなりません。社会的に特別な地位にあるわけでもありません。でもだからこそ、幸せな出会いを何よりもまず、真っ先に求めるのです。すべてはそれから始まるのです。この私個人の私生活に介入することができるのは近親者とごくわずかの知己ならびに心ある真っ当な人たちのみです。他はいりません。縁があれば、そればかりを祈る毎日です。これもまた、私が人間である証なのです。

自殺者また3万人超2011年01月08日 09時42分28秒

昨年の自殺者数が発表されています。今朝の新聞に掲載されていますが、そこから県別の人工1万人あたりの自殺者数をみると(2009年推定値を分母とします=生きていた数ですから)、

愛知県 2.12
岐阜県 2.52
三重県 1.93
滋賀県 2.54
福井県 2.49
長野県 2.59

人口も多く数では1573人の愛知県は人口比では低めです。しがらみの強い滋賀県、寒さや暗さを伴う福井県・長野県・岐阜県が高めです。全国を調べた(単純な計算)わけではないのですが、東北や北海道、大都市圏や暖かな西南日本と比較するとその一般的な傾向もはっきりとするはずです。気候要因と様々な嫌なしがらみ・束縛の大きな地域で高くなるというのは推量できるのです。

実際、そういった個人に対する圧迫や関係の強要など、社会的な環境の大きさの度合いや違いが生んだ所に本質的な原因を見ることができるのではないでしょうか。訳のわからない理不尽さ、外からの圧迫など、人間のストレスのもっとも大きな原因こそ、発表されていないさらに大きな自殺者やその予備軍に見られる苦悩の主因です。詳細で深い分析と統合的な理解こそ減らすための対策に必要と考えられます。

常に構える2011年01月09日 11時00分00秒

日常生活において私たちが何の束縛も監視もましてや強要されることなく、落ち着いて何よりも自由に過ごせるなら自ずと生きる活力や気持ちの強さを自ら見いだすことができるわけです。でもひとたびそうでない見えない恐怖や脅かされる抑圧的な声に縛られるとしたら、その生活は成り立ちません。常に誰かの陥穽にはまらないように、危険でおよそ人間とはかけ離れたいいようのない雰囲気の無い瞬間瞬間を求めなければならないとしたら、どの場所も離れることもなく、常に自らを張り詰めた環境に縛っておかなければならなくなります。

外も家の中も、現実的には何も存在せず、ただその物質的な環境に基本的な障害はありません。左右されるのは天候や交通、細々として訪れるデッドラインや約束事だけです。なのに私たちは他人の無責任な言動に振り回され、何一つ手に付かず、何一つ生み出し得ません。そこに生き生きとした命の発露など到底、期待できないのです。

願うのは、そして撥ね付けるべきは人間本来の自由や豊かな人間性とは対極にある醜さ・酷さ・汚さ、そして幼さでしょう。当たり前の人生を心ある人たちが何の障害も妨害もなく享受していけるように私たちはこの社会を築いていくことです。それぞれの心の不服従を明示的に表しそういった愚かさ以上の支配に対峙することです。決して認めてはなりません。

環境行動の目的2011年01月22日 10時04分06秒

環境の悪化と生物種の著しい減少は目を覆いたくなるほどです。それと相俟っての同じく人々の行動と言動の品位や水準の低下もあまりあるものがあります。そういった環境異変といっていい状況の下での勢力や振る舞いの不均衡はいずれその際だった当事者たちの絶滅へと向かうことを私たちは祈らなければなりません。平家物語ではありませんが、盛者必衰の理は真理であり、吉村仁、『強い者は生き残れない』の論旨のごとく、幅をきかす悪意はいずれ消滅するはずです。それは地球の歴史、生物の歴史において証明された事実だからです。

そういった環境の保護と保全、破壊や改変からの脱却、かつての再生と復元に向けた取り組みに私も一役買おうと町の会議に参加して8ヶ月以上になりますが、どうも中心的な活動をなさっておられる方々の意識に少々問題があるようです。確かに、表だって活発な行動により改善を目指すのには賞賛は惜しみませんが、どこか、自分たちは偉い、何もしないで言うばかりはなんだ、とか、一般の人たちの姿勢に対し見下したような態度を取る傾向にあるようです。また、自分たちは正しい、従ってちょっとした間違いや異なる方向に対し怒るような顔をするところはいただけません。

大切なのは、そして決定的に重要なのは住民参加で裾野を広く、幅広い活動を目指すことでそのためにはそれぞれの立場で自由な行動を起こすことです。直接的な働きをするしないにかかわらず、ひとりひとりの意識の高揚こそ環境の保全と保護、そして再生と復元に必要です。何もしないからこそ、あるいはよく観察するからこそわかることは多くまた大きいのです。様々な視点やそれぞれの意見を踏まえた活発な議論と地道な活動こそ参加型の環境行動の目的にかなうのです。どの立ち位置にあろうと、その人たち一人一人が大切にされ、積極的に認め合うことは基本的な要請です。誤った方向に導くのはそれを否定したりけなしたり排除したりする偉い人たちの姿勢と態度にあるのです。

幸せを感じるとき2011年01月25日 20時17分45秒

焼いたお餅を少しずつかじりながら食べるとき。

溜まっていた物を排出したとき。

しんしんと雪の静かに降る夜、こたつに入ってその静けさに浸るとき。

山道を歩くとき。

暖かな朝日を浴びるとき。

猛烈に眠いとき。

猫と会話するとき。

妄想に耽るとき。

電車の中できれいな女性を見かけたとき。

おなかのすいた時に食べるお昼ご飯。

声がでたとき。

自由な気持ちになるとき、そして自由に発言して自由に行動できるとき。

日本国憲法を声を出して読み上げるとき。

そういった日常を再発見するとき。

他にもたくさん、見つければあります。そして、なによりも、ほんとうに心から愛する人を伴侶として生きていきたいと切望しています。