冬の湖水 ― 2010年12月04日 21時20分19秒
また一週間ぶりに湖水に浮かぶ水鳥たちを見にいきました。晴れた日より少なめでしたが、それなりにいて、数も種類もそこそこでした。目立ったのはオオバン、ヒドリガモ、マガモ、ハジロ類。
午後の日差しが湖面に丸く差し込み、暗いどんよりとした曇り空ながら、その後光のような輝きが希望を与えてくれたようで、すこし救われた気分でした。陰影と光の織りなすあざないに日本の美しさを見るようです。明日こそ必ず。欺瞞と誤謬 ― 2010年12月05日 10時56分48秒
戦後、和辻哲郎は『倫理学』下巻で修正をなし、その実を自ら失ったためにその彼に有るべき信を喪失しました。しかるに、私においてはその変化と抑圧と蹂躙にあってもなお、真の実を失することなく保持し決してその意味で信を失う理由はありません。自ら欺瞞に陥り、その裏切りを他方に転嫁して完遂させたところに基本的な誤謬をみるのです。それをそのまま受容することも認容することも私たちはしてはなりませんし、また、現実にできません。
必ず生起する障害や障壁にたいしてどのような態度で臨むのかはその人自身のある種の信念によって為されうるところがあります。もし誰かがそれを持ち得ないままいたずらに別の方向に目を向けあるいは背け、その信たるに値するところを見失ってしまったとしたら、そこにはその人自身の不幸と闇が訪れるのみになってしまいます。どこに存在するのか、何が真の実なのかを求めてゆく、その姿勢が問われます。ブログの自由 ― 2010年12月06日 21時28分48秒
またそれ以前に、ブログやホームページを開設し、記事やウェブサイトとして記述する行為自体に何ら非難はもちろん、いつ、どんな場合にどのような形態であれ、掲載したり修正や追加、削除や転載などおよそあらゆる編集作成に制限も束縛もあってはなりません。どこのだれであろうとも、そのひとの行為に口出しすることすら、本来、前述の犯罪行為や許容されない行為以外ならばしてはならないことです。
こんなあたりまえのことをなぜ、ともしお読みくださる方がお思いでしたら、さまざまに抑圧されあるいは脅迫や侵害行為に悩んだり困っている人たちを想像していただけるとおわかりになるかと思います。現実に、それこそ決して許されない行為として人々が認識できていることを私たちは前提としているのです。これは私たちの社会において暗黙裡に、そして先に示しているように基本的に明文化されていることでもあることをいまさらですが、すべての人たちが共有する基本的な価値観として改めて知っておいてほしいと思うのです。ここは現代の日本です。アフリカでもアラブでもロシアでもカザフスタンでもビルマでも北朝鮮でも中国でもありません。ほんとうに、あたりまえのことなのです。無関係な自由 ― 2010年12月09日 09時06分03秒
ですからこそ、誰かが特定の誰かを意図的に狙ったり恣意的な抑圧・蹂躙・剥奪などの対象としてはなりません。それぞれが、その本来的な意味において独立した人格を持ち、厳然とした基本的な存在であることは自明の理であるのです。つまり、誰かにとって何ら関係のない(面識はもちろん、まったく交流や知己に至っていない)存在である他者を興味本位でつけ回したり悪意やあり得ない歪んだ心情のはけ口としてはなりません。何より、互いに全く無関係だからです。ましてや、知り得ない人と人においてそこに関わりは決して存在し得ません。
私たちはそういった自由な関係性の中で暮らしています。それゆえに、互いを知るのは直接出会い、互いを尊重し合う心ある人間としてのみ接触して話すことのみによりその関係を持ちうるのです。それ以外を基本的にもそして例外なく排除することが社会を社会たらしめるのです。一方に悪意や醜悪さや心ない意図などがあるのなら、決して関係は持ち得ません。明日を創る ― 2010年12月10日 04時50分26秒
ものごとを行うのに最初から言い訳や言い逃れを考えている逃げの姿勢では何もなされ得ません。自己保身を図り、自分本位に身勝手な思考と発想で自分たちにとってどうなのか、を第一にする、そんな者たちに明日はあってはなりません。被害に遭う心ある優しい人、何の力もお金もない、でもまっとうな神経と感覚とをもち道理を弁えた行動と言動をする、そういった生きるべき人間を私たちは育て、守り、積極的に増やさねばなりません。
何の接触もなく、何の約束もない、ただの一度も話したことも会ったこともない、そんな空疎な関係しか見いだせないとしたら何も見えてはきません。生き生きと、かけがえのない時間とたった一度限りの人生を生きていくのはまず、人と人とが出会い、ことばを交わし、心ある豊かな関係を築くことから始まるのです。それ以外にもそれ以前にも何もあり得ません。人生に待ち時間などないのです。現在を生きると言うことは、明日を創るということなのです。信頼はその直の創造である行為一つ一つから生まれます。初冬の登山 ― 2010年12月11日 20時10分16秒
途中、雨もぱらついたのですが、少しくらめながらもとても順調に山歩きができた一日でした。強風も昼前には止んで昼食は雪の上でそれなりに楽しく、やはり大勢での山歩きはよいものです。滑ることはあったにせよ、誰もけがもなく、無事谷筋の林道まで下山できました。降雨は昼過ぎに10分ほど、たいしたこともなく、またそれほどの寒さでもなく、この季節としては快適な山行でした。
冬枯れの山は遠くまで見通せてよいものです。寒ささえなければ、いえ、降雨や降雪さえなければ気持ちよく歩けます。来年は真冬でそうもいかないでしょうけど、また時季を見計らって山には入りたいと思います。とにかく、きょうも山の会のパーティの皆さんに感謝して終わりたいと思います。何を信じるか ― 2010年12月15日 09時04分48秒
私たちはそんな移ろいやすい空気の運動にも似て、不確かで不安定な関係に生きています。それゆえ、音声としてのことばにはあまり信をおきません。信じやすいひとは簡単に信じ込みますが、いい加減なことばや繰り返しことばにそれほどの真実はないのです。ましてや、意味を成さない単語や発声、一見(一聞)センテンスになっているようで実際には何にも日本語としての意味合いを持たないものなど、訳のわからない音声の方が多いのです。
私たちがほんとうに信じるのはことばではなく、その発話者である人間です。その人がほんとうに信頼するに足る人物なのか、それを見極める必要があります。上っ面だけのきれいなことばや巧みな言い回し、その裏の狡猾な意図を隠した振る舞いなど、よく観察すればその人が真に人間として話をすることさえできる者かどうかも感じ取ることができるのです。ですから、私たちは直接、接して(もちろん、その必要がある場合のみ)じっくりと考えて聞いていいのかどうかを自分自身の頭で考えて判断していかなければなりません。学ばない、習わない ― 2010年12月16日 21時23分42秒
繰り返し、嘘を言う、欺く、騙す。そんな繰り返しでいざというときに誰も信じない、そんな態度や振る舞い、言動を戒め、生きる道を説いた説話や童話、寓話の類は古今東西、たくさんあります。でも今もって改まる様子もないのです。とりわけ愚かな者たちの多い地域ではそうです。誰のためでもない、ただ奪い、ただ壊し、ただ否定する、そんな目的のためにどれほど心ある人たちを傷つけあるいは蹂躙し、明日を奪えばすむのでしょうか。そんなことが多すぎます。
寒風でもなお吹きすさぶ中飛び交う鳥たちを見ていると、自然に強く生きることの逞しさと清々しさを知ります。人間たちの愚かさや貧しさ、醜さを顧みることなく前に進む姿の確かな軌跡は私たちに生きるとは何なのか、を教えてくれているかのようです。過ちを繰り返さない、誤りを改める、賢明であること、まっとうであることを直にそのありのままの生き方で示してくれる生き物たちに私たちは首を垂れるしかないのでしょうか。ヒトが人間であることの証、考えることは同等にさえなり得ないのでしょうか。自然再生に向けて ― 2010年12月17日 22時09分24秒
夜は役場で自然再生協議会の設立準備会が開かれ、県の担当者、野鳥の会の方、役場の方々、そして町の20~30人の方々が集まり、これからを少し話し合ったのですが、それぞれの気持ちを確認できたという点でそれなりの役割を果たした会合でした。湖を中心とした自然再生はそれが人里と密着した存在であるだけに難しい課題もあり、ほんとうにかつての美しい環境を取り戻せるかどうかは住民を中心とした活動と議論にかかってきます。
自然再生法という法律に基づいた協議会と施策の行方は主として事業主体の自治体にどうしてもよってきます。でも、誰もが考えるように、何より、誰よりもそこに住む人々の意識と日常的な働きが現実に自然再生を実現できるかを決めていくことは間違いないのです。やはり、今日の会合では全く話にでませんでしたが、啓発と教育はその下地として不可欠なのでは、と帰り道すがらぼんやりと考えました。似たり寄ったりの議論と出尽くした感のある対策や記述ではなお真の再生にはほど遠いような気がしてならないからです。信じられない人たち ― 2010年12月18日 20時16分07秒
また、最寄りの顧客担当に電話すると、今度は『こちらではわかりませんので、送り先の担当から連絡させます』とのこと、こちらの電話番号も伝えたのですが、30分経っても一向にかかりません。再度電話するとこんどは『聞こえません』で大声で話しても応答なしでした。電話を切ってまた電話し直したところ女性の声で応答があり、『電話させますので』とのこと、やっと返事があった、とは前段の応答でした。
顧客対応をおろそかにして失礼な対応に終始して、こちらから2度もかけさせるなど、とても信頼のおけるような業者ではないように思えます。顧客商売は信用第一、との基本的な姿勢をないがしろにしてどうして他人の大切な荷物を預かれるのでしょうか。しかも、ラベルなどを見る、読むは基本中の基本であり、こともあろうに同一県内で回すなど、論外です。子供でも間違えるはずのないものです。なぜか、に返答に窮しての最初の答えだったわけです。ほんと、ひとのことばというのは信じられません。ほんとうのところ、どこに荷物があるのか(あったのか)わかりません。
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