かけるお金2006年05月11日 19時19分06秒

夕方の報道番組でのお金の割り振り、予算化の問題で二つの事例がありました。一つは、岡山県美咲町の学校での朝食(というより、補食)提供、もう一つは文化振興のための予算問題で大阪府の例です。美咲町の町長はごくあたりまえにおっしゃっていましたが、これからを担う子供達のために、年間1200万円など、惜しむべきお金ではない、とのこと、立派です。教育予算を削ることは、本来、義務教育を担うべき国が負担すべきですが、それを彼らは削減しようと躍起になっています。さきごろも教科書代を浮かすために、貸与制にしようとかいっていました。大阪府は四つの交響楽団のための予算化に困難をきたしているそうです。

ちょっと聞くと、どちらもかけて当然のように思えますが、両者は性質が異なるように思えます。人を育てるためのお金、これは充分といえる額が必要です。その発達・修学段階に応じて欠くべからざるところがあります。でも、小学校の校長がのたまわっておられたように、朝食補助は家庭に第一義的に責任があります。食費に困るような家庭なら当然、食費補助は必要です。でも学校で与えるものでしょうか。町の姿勢は立派ですが、どこか変です。また、文化予算も支援のみ、でよいと思うのです。文化の形態とその育成は教育とは異なり、それら自身による開拓と流布・浸透が必要です。これはまた、たとえば交響楽団のような団体の場合、自治体が持つべき必然性はありません。歴史に根ざした欧州とは違い、日本では楽団は確かに一つの文化の形態、表現手段ではあっても地域社会での維持に必然がありません。望む、望まないは選択に任されるべきで、育成も彼ら自身、それ自身の問題でしょう。

私の住む町でも、いわゆる、スポーツ振興を名目に、貴重な二次的自然環境を壊して不相応な大きな体育館と周辺施設を無理矢理建設してしまいました。反対も大きかったのですが、押し切られてしまいました。これも、先の二例も、どこか変です。社会環境の保持と育成、自然環境の保護、そこに生きる人々の教育、これらはお金をかける合理的理由があります。でも、特定の団体や特別な活動のためのお金は全面的な支出理由がありません。これは文化の違い、の問題ではありません。何か、はき違えているようにおもえてしかたがありません。もっと、自然に、そして、よく思考すべきです。