議論と公平と ― 2013年09月25日 22時25分54秒
仲良しクラブ、とはしばしばなあなあで対立を意図的に避けて暗黙の了解(って、どうやるの?)を合意として全体の「総意」なるものを作り出すことを形容して言われることばです。ときとして、鮮明で先鋭な対立を回避し、妥協を図る、という意味で有効な場合はあるのですが、それもまれだというのはそれが暴力的な対立では無い限り、本来認められる形態ではない、というところに民主々義のそれこそ、合意と認識が存在するところです。
今日も、生徒会のリーダーを選ぶための全校集会があったのですが、その場に現れた立候補者はたったの一人でした。前の学校でも一人で、形だけは演説を行い、聞いたわけですが現実には単なる信任か否か、というだけのもの。小中で現在どうなのかは知りませんが、高校でこの調子では多くの自治体で無投票の頻出は頷けるところです。円満に、とか、丸くおさめる、とか、ともすればいいじゃない、と片付けられることの多い社会でどれほどの本質的な議論が期待されるでしょうか。
そして、裏では陰の取引や汚い裏取引、卑怯で卑劣な作為などが横行します。『分かるだろ』的な言い方や口封じ、無言の圧迫や示し合わせなど、本来受け容れてはならない少数への陰の暴力などが正論や公平な言論や存在すら否定している現状があるのです。立場がどうであれ、一旦、暴力的な行為(腕力や物理的な行為ではなく)が為されるとき、そこに公平・公正・衡平・対等な一人一人の存在は保証されません。何をするにしても、どのひともそういった立場での活動や仕事、言論が堂々とされないところでは何も成り立ち得ませんし、何一つ生まれません。建設的で前向きな社会の基盤を否定するような人々を作り出しているままでは教育をいくら叫んでも無意味でしょう。おとなとして必要なのはこの排除に他なりません。
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