ある都会にて ― 2013年07月21日 21時25分37秒
明るい内に出かけ、明るい内に戻ってきました。やはり、昼の風景は好ましく、すべてを見つめて様々な有り様を観察できます。マクロな世界の細々としてそれでいて少しずつ異なる姿や移ろいゆく光景を直に知ることは用事とは別にとても大切なことです。土地が違えば風土や人の立ち方もまた異なります。そんなところで善し悪しを云々するのは基準などあるものでもなく、意味を持つのかどうかも深く洞察しなければなりません。
だからこそ、伝わるものや受ける印象よりも、何を伝え、どう考えるかが問われます。決して自分自身の感覚ですべてを推し量るのではなく、その表象と現実のやりとりや事実と存在の実感からひとつひとつを再構成し、問いを発していかなければなりません。そうして、真実を知ろうとする営みこそ求められるのです。それは次に生かされます。土用の丑の日 ― 2013年07月22日 18時43分29秒
平賀源内先生の発案から、日本中に広がったこの習慣、今では年中食べることで資源の枯渇も心配されるのは源内先生も予想しなかったことでしょう。周遊魚としてでなければ育たないこのウナギをどうするか、この日に食べるだけでなく、考えなければなりません。まず、始めるべきは、食べる量の低減、控えめにすることでしょうか。そうして少しずつ、稚魚を増やし、育てることに力を注ぐことです。幸い、内陸の湖沼も環境の改善は進んできていますから。いつからするの?今でしょ!
私たちにできること、いえ、進めなければならないこと、この漁業国でその大切な資源を適度に消費しつつ、ほどほどを心懸けた魚食の文化を再興することです。腹八分目で消費量の低め安定を図ることは維持可能な社会のひとつの姿です。自給はその消費量・需要の適正化もまた、寄与するはずだからです。その第一次産業の経済的な適正化を同時に創り上げること、焦眉の急と考えます。なくしたいもの ― 2013年07月24日 19時02分50秒
この地では、ある高校で、生徒が誕生日の祝いだとかで、多数で胴上げをして床に落とす、それも何度も繰り返し、更に「部室」という密室に連れて行ってまた何度も繰り返して落とす、という事件がありました。新聞には5日後に掲載され、県教委にはその日に報告されたのですが、その行為は30分も続けられた、とあります。勤務校で校長から話があり、初めて知ったことです(私は地元の新聞は購読していない)。どこか、広島の集団暴行致死・死体遺棄事件とにています。もちろん、救急車ではこばれたとのことでしたが、そんな行為にためらいなく加担するような人たちが多い、というのはここに住んでみた実感です。信じられない。
なによりも、ひとりのひと、つまり、絶対少数を何人もの者たちで蹂躙する、平気で加担する、しかも何度も繰り返す、そんな人間こそ無くしたい、と強く思います。先の嫌な職員も何度もでした。ただただ単に用を足しに来てなぜ、と思います。自分がされたらどんな気持ちにとらわれるか、それを気にしないで何度も繰り返す、そんな人に人と接して欲しくないと強く感じます。うそや強弁は ― 2013年07月25日 20時20分52秒
たちの悪いものは、いうまでもなく、嘘や偽りです。そして、それを何度も繰り返したり、強引に言い張ったり、一方的に言いつけたり、そんな輩をみているとほんと、嫌になりますし、はなはだ迷惑です。それが適切さや正当な主張・行為に対する理不尽で不合理な反目であると尚更です。怒鳴りつけたくなるほどばからしく、生理的に受け付けられません。
そしてまた、もっとひどく、社会的にも認容できないのは、誤った記述や提示、事実の歪曲などを声高に叫んだり、歌にしたり、さも科学的に正しいかのように吹聴されたりすることです。とにかく、ひどいものですから。何も知らない子供達や判断能力や思考・観察に乏しいときにいとも簡単に騙されたり、鵜呑みにしてそのまま誤った知識としてすり込まれたり信じ込んだりします。これはひとりひとりにとって、またその社会にとって極めて不幸で危険ですらあるのです。放置すれば社会の衰退と崩壊に、大げさではなく、つながることにもなりかねないのですから。それを救うのは、あらゆる機会での「教育」や「学習」です。まちがいなく。スペイン列車脱線事故 ― 2013年07月26日 06時35分58秒
たとえば、時刻の遅れを取り戻そうとして急いだこと、たとえば、急カーブ、たとえば、緊急列車停止装置、たとえばその運転士の心理状態、たとえば、たとえば・・・・・・・。
高速鉄道だからといって、日本の新幹線との比較は不適切です。恐れるべきは、鉄道会社における運転士の労働状況やスペインの"Reife"という鉄道会社いうところの、朝の点検で異常はなかったという責任逃れの姿勢など、とても似通った背景に気づかされます。技術的な前段階の(走向以前の)見逃しやその後の突発的なあるいは累積された歪みなど、まだ調べてからでないと言えないことばかりなはずだからです。何より、急がなければならない理由を突き詰めることですし、190km/hから80km/hへの減速の実際的な方法や手順、可能性など、ソフト面からも見直していくことがもとめられるはずです。運転士ひとりの責任とすることは論外だと考えます。地方大学で ― 2013年07月27日 18時12分24秒
まあ、内容は、原子力発電についての是非を含めた簡単な議論で、このあたりは流されているところも多々あるかな、という印象です。ポスターセッションは割によくなされていて、他校の熱心さに感心しています。将来を担う彼らに万歳、といったところでしょうか。これから進学し、日本の社会・科学を担って欲しいと切に願います。
しかしながら、暑い暑い。昼を過ぎてからは33℃、蒸し暑さは苦しいほどでした。帰宅後も雲も多くむっとした天候にはうんざりです。すっきりとした夏に戻って欲しいと願わざるを得ません。異常さと愚かさの中で ― 2013年07月29日 20時34分50秒
しばしば氷に塩をまぶしたようにひどく冷たくして何の感覚もないかのような、そんな声に自身は何も感じていないようです。わたしなどはそんな声やことばにはけっして自分自身は触れられない、というあたりまえの感覚や神経をもっています。しかも、絶対少数に対してです。恐ろしいと思わないのでしょうか。</p>
何度も愚行や傷害や無慈悲極まりない行為を繰り返してもなお、反省はもちろん、その返り血もかまわないかのようです。愚かさとは、その愚かさに気づかないことだ、とはいつも言及されますが、それによって何も得るものなどありはしないことはわかりきっているのにです。まさに、人の心とは地に落ちたものです。さようなら、と言い放ってみたい、と思います。<p>
夜の帷が下りて、降雨は明日の朝の大雨を予感させます。すさんだ心にも思いきりふりつければ、きっと少しは気も晴れるでしょう。この土地にはそんなことしか期待できないのです。行き来もままならないかもしれず、留め置きたるこの身に幸いこそあるべき、いえ、なければならない、それこそがこの社会にわたしが望むすべてです。そうでなければ、この世は衰えるでしょう。必ず。
バリバリつなガレーとLINEの行く末 ― 2013年07月30日 18時03分33秒
Twitter やブログはしていても、このLINEはしていません。本質的に使いたくないな、と思っています。極端な話、次々と連鎖を繰り返してあっという間に広がる危険性や直接知らない人たちまで実体や人間を知らずに文字だけで伝わる恐ろしさがあるからですし、それは意図した、思っていたことではないことが誤って伝わり、おかしな方向に進むことが恐怖だからです。昔、伝言ゲームというのが行われましたが、これとよく似ています。列の最後では始めの内容と異なってくるのです。
伝言ゲームはいじめの端緒となり得ます。何より、特定の誰かが言ったことが他人に次々と伝えられる、という恐怖の中にあるからです。わたし自身、それでずいぶんと苦しみましたし、今もその後遺症にさいなまれています。遊びとはいえ、決してしてはならないゲームです。同じく、LINEも現代版のそれとなり、人を貶めたり、いじめの内輪での悪企みや誰かをそうする場とさえなるのです。その顕著で極端な例は、いうまでもなく、広島の呉で起きた集団暴行殺人事件でしょう。個人的には、LINEは有害アプリとして、使わないようにすべきだと思うのです。連帯と共有、支え合い分かち合おう ― 2013年07月31日 18時55分48秒
困ったとき、あるいは危機のとき、私たちは弱い人、小さな人、救いを求める人、苦しんでいる人、そういった人たちに手をさしのべるのが当然なのです。そこに、分け隔てなどあってはなりません。先の二人もまた同じことをいっています。区別無く、手を携えて歩むことです。今を生きるとき、誰もが同じ時間を共有しているのです。同じ、地球上の空間と社会を共有しているのです。
それにひきかえ、この地の者たちの中には(悲しいことに多くの)情けないほどに人でなしのような言動や行為に及ぶ者たちがいるのです。小さき人、困っている人、声を出せないで苦しんでいる人、助けを求められない人、そんな人の手を叩き叩いたり、わらをもつかむ思いのその人たちから「わら」さえも奪う、そんな行為を平気でする者たちです。そんなところに住んでいることに堪え難い悲しさと情けなさと恥ずかしさを覚えます。彼らに救いの手はさしのべられないでしょう。
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