生きるために働くのか2011年11月17日 07時10分12秒

朝の光
やはり気象情報は嘘っぱちでした。明け方雨が降る、と。でも昨夜、いえ、夜半過ぎてすでに3時前にやんでいたようです。路面は濡れていましたが、空には月が煌々と輝き、冬の星座は西に傾いて全天、星でした。決定的に事実がすべてを決めたのです。

同じことがまた、労働の現実にもいえます。言われた話、誘因の記述、そういったことどもに事実はありません。その内実はすべて、その正当化にしかなかったのです。実際、対等で同等の労働、平等で同じ権限や資格のない場所に(職場に)労働の本質はありません。つまり、人間として、その労働の本質は一人の人間としての誇りや尊厳が存在していない、というところにあるのです。

ワークシェアリング、と一口にいいますが、単にケーキを分けるようにするだけでなく、同じテーブル、同じ椅子、同じ環境で対等に話しながら食べられる、そんな平等な関係のないところに労働の分かち合いはあり得ない、ということです。誰かが上に立ち、何も言えない、そんなところにどうして働く喜びがありましょうか。求められるのは本質的な平等なのです。

自己責任に非ず2011年11月17日 07時15分20秒

サワフタギの実
現実になされてきた侵害行為、蹂躙に対し、声を上げることもできない抵抗手段を持たない人たち(私も含めて)にとって、その状況や状態、不幸や不如意について責任を問われることなど、心外くらいではなく、あまりに理不尽であり、受け入れることなど到底、できないのです。犯罪行為や加害行為を行った者たちにこそ全責任があることは明々白々です。どうして、弱い人たちが何もしていないのに責任は自身にある、などと強者や加害者たちにいわれなければならないのでしょうか。

過去にも、たとえばイラクで人質になった3人に対して、自己責任をおしつけた事例がありましたが、同胞の困難に際し、ぐずぐずしたりあとでお金をだせ、などという政府や社会がどうして正当化されましょうか。困った人たちを救うことは何にもまして必要であり、命のかかったときにどうしてそんなことをいえたのでしょうか。人間として許されません。

生活上も、私生活の秘匿の権利、人との会話や相談を開披されない権利など、人権に関わることであまりにルーズでその意識を問われる事例が多いのです。でもそれらによって、つまり、そういった犯罪行為の結果をもとに被害者や困難者が酷い目に遭ったりなお人権を蹂躙されたりすることなど、決してあってはなりません。それは私たち自身を社会の中で守り、生きることに他ならないからです。