生きるために働くのか2011年11月17日 07時10分12秒

朝の光
やはり気象情報は嘘っぱちでした。明け方雨が降る、と。でも昨夜、いえ、夜半過ぎてすでに3時前にやんでいたようです。路面は濡れていましたが、空には月が煌々と輝き、冬の星座は西に傾いて全天、星でした。決定的に事実がすべてを決めたのです。

同じことがまた、労働の現実にもいえます。言われた話、誘因の記述、そういったことどもに事実はありません。その内実はすべて、その正当化にしかなかったのです。実際、対等で同等の労働、平等で同じ権限や資格のない場所に(職場に)労働の本質はありません。つまり、人間として、その労働の本質は一人の人間としての誇りや尊厳が存在していない、というところにあるのです。

ワークシェアリング、と一口にいいますが、単にケーキを分けるようにするだけでなく、同じテーブル、同じ椅子、同じ環境で対等に話しながら食べられる、そんな平等な関係のないところに労働の分かち合いはあり得ない、ということです。誰かが上に立ち、何も言えない、そんなところにどうして働く喜びがありましょうか。求められるのは本質的な平等なのです。

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