晴天、好天、休日2009年05月02日 20時05分19秒

キジのつがい
朝からいい天気でしかも風もほとんどなく、穏やかな日和だっただけでなく、気温も24℃ほどまで上昇しました。暑いくらいの五月の初め、この地域も割に(いつもと比べて)落ち着いた時間を過ごせたようでした。一年で一番気候の良いこの季節、幸福感を味わう人びとも多いのですが、私にとってはまだ始まりにもなっていません。休日ながらもなお刻苦勉励を自分自身に部分的にも強いなければなりません。

海岸にはどこから来たのか、車が多く、造成された小さな「産業団地」にまで車が入ってきました。何もないのに。いままでなら、この季節、ノイバラの芳しい香りでいっぱいになる頃です。とりわけ、穏やかな状態ならば傍を歩くだけでその薫りに浸ることができます。他の花や草木も生き生きとするこの時季を奪い失ったのは取り返しがつきません。もっと別の方策、方途を考えるようにどうして彼らは発想を転換できなかったのでしょうか。むなしい浪費と空疎な喪失感だけが目立ちます。

おしなべて暖かな時間を過ごせるのは一時的な逃避と回避、目をそらす施策の結果に過ぎません。ばらまき財政とその政策、時限的な失業対策、高速料金のわずかな値下げ、殊更にマスメディアが取り上げた「事件」や罪を煽る報道、何より、ほんとうのこと、事実をありのままに直視させない現実、そんな政府や官僚、支配的な者たちの恣意的な言動や行動に私たちは目眩ましにあっています。でも、今知らなければなりません。知らしめなければなりません。そして、眼を覚まさなければなりません。

不治の病2009年05月03日 21時14分00秒

コンクリート固めの水路
何が「彼ら」をそうさせ続けるのでしょうか。写真のような三面張りくらいではないとんでもない水路とその周辺の改変、人工的な苦しい固めを作り続けます。以前のブログでも記事にしたように、ここは前はまだ遙かにましでした。緑のある、それなりに二次的、三次的ではあっても命と食を継ぐための姿がまだありました。でも、これはもう、それらに断絶を告げたに等しく、何も残されていません。工事中からもうひどいやり方で、とてもここで田んぼや畑をやるような環境ではなくなっていました。

いったい、何のためにそうもこうも何度も作り替えるのでしょうか。この道路を挟んだ一方の水路もまた、二度三度とまだコンクリートも乾かぬうちにとでもいっても言い過ぎではないほどに早く改変していました。とにかく、ひどいものです。誰がいいだしたのか、誰が求めたのか、誰が許したのか、誰が認めたのか、呆れます。馬鹿につける薬はない、といいますが、こういったやり方、破壊をし続けることにどんな意味があるのでしょうか。

直らないこの地域の姿そのもののように思えてなりません。不治の病とはこのことをいうのでしょう。まだ救われていた以前の環境なら、生き物もやってきていましたし、住み着いてもいました。でももう、いけません。こんな環境を進歩だとか発展だとかいって、その実、自分たちの目先の銭稼ぎでやっているだけです。あまりに哀しい、あまりに哀れです。醜さ、汚さ、卑しさ、そんなことばばかりが浮かんできます。周辺住民を見るとなお悲しくなります。そして言うことはいつも、弱い者、小さい者、少数者(あるいは絶対少数)に対する侮蔑、見下し不満の吐き出しです。恥ずかしいとは思わないのでしょうか。

曇り空の一羽2009年05月04日 22時21分45秒

ダイゼン一羽
海岸沿いの田んぼでは代掻きをトラクタを使ってやっていました。何も無いはずなのに、たとえば山の麓の田んぼでも同じことをしていてそこにカラスが20羽ほども群がって降りてきています。ついばむほどの餌があったのでしょうか。それでこちらはというと、もう落ち着いた場所には主にコチドリが何羽もやってきてはちょこまかとなにやら探しています。そんなにあるのか、人間の私にはわかりませんが、きっとあるんでしょう。

一羽、明らかにコチドリとは違って、しかもその数倍はあろうかという鴫(シギ)かと初めは思いこんだ鳥がやってきてうろついていました。でもよく見るシギとは足の長さが違う、くちばしが短い上に太い、そんなに警戒しない、といった一連の特徴から同類だが異なる水鳥だとわかりました。後で調べたら、ダイゼンという鳥でした。飛び立つ姿を捉えたのですが、その内側には黒い帯に似た色違いの「模様」があり、これではっきりと区別できたのです。

ここいらの田んぼではしばしば見かけないシギ類や意外に珍しい渡り鳥をみかけます。湿田になりやすい環境ですからこそ、そんな鳥たちにとっての休息と立ち寄りの(つまり餌場)場所となっているのかもしれません。もしこれ以上、周辺をも含めて改変していかなければまたこれからも、そしてまだこれからも、飛来しその数や種類も増えるかもしれません。そんな期待や希望を奪われないよう、行動すべきでしょう。祈るだけではいけないのかもしれません。

皐月の花2009年05月05日 22時28分57秒

フジの花びら
五月の花といえばおおかたはツツジですが、このフジの花もまたしだれ柳よろしく房が垂れ下がってある姿はよく眼を惹きますし、その色は緑の中、とてもよく目立ちます。山裾、多く日当たりの良い場所にとりわけたくさん咲いているので、ああ、今年もまた、と思えます。その花を近接撮影しました。形そのものはツユクサにもにていますし、マメの花にも似ています。ヤマフジではないのが残念ですが、淡い青紫に和みます。

今日も曇り空、また海岸沿いの田んぼにはダンゼンが一羽いました。昨日のそれでしょう。しきりに餌を探している様子で、追っかけていっても近づかない限り逃げません。邪魔しない限りはかまわないようです。写真も何枚も撮れました。ただコントラストが曇りのせいであまりないためはっきりしません。

夜は弱い雨、明日はさらに降りそうです。花も鳥も一息、後の陽光に備えるのでしょうか。

キイナのことば2009年05月06日 19時16分45秒

春瀬キイナ
もう放送は終わったのですが、『キイナ~不可能犯罪捜査官~』の最終話を今日見ました。内容はあるようでないのですが、春瀬キイナのことばはとても印象に残るものです。例えば、
あなたのやったことは単なる犯罪です。
とか、最後のエレベータ内での山崎君に対することば、アインシュタインの引用からですが、
毎日おこるすべてのことが奇跡なんだって思う方が 私はいいかなって。だってその方が 楽しいから。
後のは確かに平凡な感じもしますが、キイナ自身を表しているわけで、ほんとうの観察者として、確かな目を持つことを教えてくれています。

私たちがいつも仕方なく受け入れてしまう、あるいは嫌が応にも認容してしまう出来事や人の行為言動にもまた、キイナ流に応答し思考し、そして、御手洗修司管理官がキイナを見込んだ理由でもある、真の正義を求め続ける心やその姿勢、態度をこそ、再度見直し、日常から変えていくことが必要だとわかります。小早川教授に、『……許せない……』と言い切ったように、規範や模範を内在的に、自分たち自身の信ずるところとして持って前進することが今ほど求められている時代もないと思うのです。

刑事ドラマとして創られたわけではないわけですが、この分かり切ったストーリーの展開の多いドラマのほんとうの意味と主題を理解し、今に生かすことは決してテレビドラマだと見下すことにはならない大切な理由となるのです。そういった側面をこそ、DVDになるこのドラマを見る際に省察していただきたいと考えます。

啼かない雌もキジ2009年05月09日 19時57分16秒

飛び出たキジの雌
雉も鳴かずば打たれまい、と言うのもほとんど、いえ、例外なく雄のことで、雌は啼きません。ただキジは突然飛び出てくるので目立ちます。意外に逃げ足も速いのですが、もたもたとことこと走るので撃たれやすいと思われるのは無理もありません。でも、キジの雌もキジとして生きています。啼かなければ撃って良い、のでもないからですし、啼いたから撃てばよいのでもありません。生きるための食餌の時間はその一瞬を元に彼らに与えられているからです。

人が人間として尊重され、人格も人権も社会的に認められ、不可侵の存在として欠くべからざる者とされることは生得的な権利であり、現代においてはそれは必然です。過去の歴史に鑑みるまでもなく、今に至ってそれも時として、場合により、などとは決して述べてはならないのです。言うまでもなく、そういった言動、行為は許されてはなりません。ましてや、誰か一人だけをよってたかって排撃するなど、到底、許容されうるものではありません。

存在そのものが生そのものであり、泣かないから、啼かないから、だから哀れむべきでもない、情けをかけることでさえない、などとは絶対にいえません。雌のキジもそうあらん、としてあるのではなく、生得的に生きる存在であり、私たちもまた、一人であっても、どんな社会的な苦境にあってもその存在は否定されません。求めなければならないのはその実際の行為と発言とによって対等な存在を可能ならしめる人間としての存在であり、ましてやそこに意思表示の無い存在が他者によってないがしろにされていいはずはありません。いうまでもなく、そのために一方的に決められる理由も原因もあり得ません。その存在の理由も考える故の存在も機会も奪われることは絶対にあってはならないのです。

瑠璃色の飛翔2009年05月10日 20時20分10秒

ニワハンミョウ
訪れる参道に至る、車道の平面はいかにも恰好の庭園なのか活動的な運動場なのか、ここには虫たちが集まってきたり飛んできたりします。トンボも含めて、木漏れ日と静かな雰囲気の中、飛翔体となって躍動する彼らの行く道はそのまま私の捕まえる足の進む方向となっていたりするのです。今日はその中、青い何かが目の前を飛んでいるではありませんか。数メートル飛び降りる、その繰り返しのところ、消えたあたりを探します。

いかにも地味な、草と土の混じったような色合いのハンミョウでした。羽を閉じたその姿からは飛んでいるときの見事な瑠璃色は見えません。それでも、このニワハンミョウは私の興味を惹くに充分だったわけです。ハンミョウはとまってもとてもきれいで目立つのですが、これは道では溶けてわかりません。でも秘めた色は何かを伝えるための青なのでしょうか。

幸せを願う、そんな心をさえ躍らせるかのように、私の気持ちも運んでほしい、それこそが今の姿を映し得たのです。誰もが時として、いえ、しばしば祈る思いで見つめ遠くを見やる心あればその光の先の明日も見えてこようというものでしょう。深くなる緑と命の輝きに囲まれて、なお希望だけは失うまい、そんなあたりまえの思いを誰に奪えるでしょうか。決して現在の瞬間瞬間の、そしてその連続の、未来を、その機会を、私たちは誰にも渡してはなりません。

酷い女子中学生2009年05月15日 20時06分02秒

今日の帰りの電車内で酷い目に遭いました。一番前の車両でおとなしく座っていたら、乗り込んできた女子中学生の一群、6~8名だった でしょうか、通路で私を露骨に、いや、いや、とか言って顔を隠したりしながら、避けるというか、わざわざ私の横だけのけて後ろ向き になったのです。それも両側(つまり、前と後ろ)に分けて。降りるまでなにやら訳のわからないことをしゃべっていたようですが、私と いえば、単に何となく見つめていただけで特に誰を見たわけでもなく、前を見ていただけでしたが、眼を開けているしかありませんでし た。そして、更に、降りる際に一人が、『こんなのを見ると殴りたくなる』などと言ってのけたのです。もちろん、私は全く何もしてい ません。ただじっと座っておとなしく前を見つめていただけです。その上、降りた側を見たら外で、『きゃあ』とか『いやあ』とかいっ たのです。ただ私は見ただけです。

言うまでもなく、何にも思い当たる理由はもちろん、直接にも間接にも彼女らを知っているはずがありません。ただ偶然、偶々乗り合わ せたに過ぎません。もちろん、顔や姿を見るのは初めてです。誰が女子中学生を見て何かの原因や理由を知りうるでしょうか。彼女らに しても私を見るのは初めてのはずです。見ず知らずの中学生に露骨に嫌われたり避けられたり、ましてや、酷い言葉の暴力を受けるいわ れはありません。ハンサムでないのは認めますが、突然そんな態度に出られたり暴力的なことばを投げかけられたりする理由などありま せん。それも、かわいらしい、優しいはずの女の子にです。私は身なりはスーツ姿で鞄も膝に乗せていて誰の迷惑にもなっていません。 何にも原因も理由も見あたりません。怒るどころか、私には感情的な気持ちさえ起こりませんでした。後で電車を降りてからの帰途、ど うしようもなく悲しくなりました。泣けてきました。涙が出てきました。堪えられない気持ちだったかもしれません。

とにかく、このごろの、たぶん悲しいかな、多くの若い人たちにはそういった自分本位の姿勢や態度が目立ちます。自分からだけ見てど うなのか、自分がどう思うのか、勝手に感じるのか、それだけがすべてのような行為、言動が目につきます。いえ、耳にします。他者へ の思いやりどころか、人を人とも思っていない、そんな傍若無人とだけでは表現不可能な酷さが現れています。そして、時としてそんな 極端な事例を我が身で知ることにもなるのです。もし、彼女らに理由があるのなら、そうされる側、言われる側の一番弱い人を責めたり 叩いたりするような最低の心ではなく、そういった人(私も含めて)を貶めた、辱めた悪い(ここが肝心)者たち、酷い者たち、力を奮う者 たちをこそ、攻撃すべきだということを知ってほしいと思うのです。原因はそういった「彼ら」にこそあるからですし、彼女達自身にあ るからです。絶対少数の一番弱い立場の人間をよってたかっていわれもない差別的態度で接して排撃するなど、許されません。何のため に中学校にいっているのでしょうか。弱い者いじめ、被害者いじめの練習のためでしょうか。そうだとすれば、この社会、地域社会のあ したはとてつもなく、暗いものです。崩壊の始まりです。

咲くや悲しき野茨2009年05月16日 22時41分08秒

開き始めたノイバラ
去年の今頃はこの山の北側の空き地・荒れ地の周辺は野茨の芳しい香りが漂う暖かな風景がありました。でも今年はそれはありません。小山の北側の舗装道路の北側の、わずかですが残っているそのノイバラはまだ開き初めて間がない、そんな風情で横にも廻ってもいなくて、ただ上に伸びています。そんなわけで匂いもまだまだで、ここを通るとかつてはこもるぐらいにあったその香りも消えています。

重機と人の意図的な、恣意的な目的の前に花々は為す術もありません。固着性の植物ですから、失われてしまってはもう、戻りません。時としてアスファルトやコンクリートの割れ目などから、あるいはそれらを持ち上げるように伸び出てくる強者もありますが、もと居た彼らの姿ではありません。この地域一帯を襲うのはなにも風雨や豪雪だけではありません。緑を奪う、押しつぶすその怪物のような、生物や心ある者から見ればまさに異様な化け物のような力です。暴力、それで表せるでしょうか。

潜む醜悪さや欲望、幼児性や無知蒙昧はその歯止めを自ら奪い、その牙や毒は小さき者達や日陰で生きている者達に容赦なく襲いかかり生きる力を奪おうとするのです。何が彼らを怪物に変え、なぜその伝染を食い止めることができないのでしょうか。自己統制、自律、自己認識、そういった本来あったはずのものがどんどん消されてきています。自らの崩壊を待たなければ直らない、止まないまでに悪化し危うくなっているのです。何をもってすれば気づかせることができるのでしょうか。

Windows7RC 導入やめた2009年05月17日 20時35分00秒

Windows7起動背景
今はWindowsXP(x64)を使い続けているのですが、今度出たWindows7の製品候補版(RC, Release Candidate)を試しに入れてみました。でも、結果は最悪でした。音はなるのですが(SoundBlaster X-Fi)、肝心のTVキャプチャができません。一応、インストールもできましたが、アプリケーションとして立ち上がりません。他の人のブログでは、私の使っている、MTVX-SHF は使えたとあり、期待したのですが、どうも、x64(64ビット)ではうまくないようです。

起動も速く動作もさくさくとしていてルックアンドフィールもいいのでかなり残念です。おまけに、ブート画面も編集できず、EasyBCDではうまくいきませんでした。XPとは別のハードディスクのパーティションに入れてみたのですが、このXPのパーティションを認識せず、相互のやりとりができません。これでは移行にも問題を生じますし、切り替えも容易ではありません。従って、完全にXPに戻しました(CDからブートし、回復コンソールで fixmbr; fixboot としたわけです)。

以前に Vista に変わってからカノープスのMTVXシリーズはだめになり、操作上も好ましくない場面ややたら多い確認ダイアログなど、もちろん、動作ののろさ重さもあり、使わなかったのですが、そういった改悪の改善や組戻しが為されなかったのは残念でしかたありません。とにかく、負の面が多すぎます。マイクロソフトは方向性を見誤っているとしか思えません。