山の中の違うハエ ― 2007年07月01日 22時09分54秒

近づいても寄ってもきませんがあからさまに逃げもしませんし、人間を気にしていません。寄りつくのは腐った物とか生ものかではありません。もちろん、そういったハエもいますが、それらとは一線を画していて、見た目にも「きれい」なのです。光沢のある緑色、細身で羽も薄く細長く、模様があります。そして餌を求めて草の葉を飛び移ります。せわしなく動いてはより小さなものを捕まえるのです。「汚さ」は感じられません。
体長7mmほど、小さく細く軽やかな、昆虫とおぼしき行動をとるこの種は不潔さとは見かけにも実際も無縁と思えます。まだ詳しく長くは観察していませんが、思いこみや先入観で見たり見過ごしたりすると間違った理解をしてしまいます。そのひとつの例として、注目してみるのも大切です。人間の社会もなお、同じことなのです。樋の上のカマキリ ― 2007年07月02日 19時57分51秒

何かのはずみで登ったか、落とされたかで樋の切っ先に置かれて困ったのは間違いなく、その後は屋根の、また端をつたい、向こう側まで走るのです。降りられずに困って下を向いてぎゃーぎゃーなく猫と違い、声を出せず、誰かを頼ることもできず、ただ、「端」をつたう、それは必ず、この「世界」、今いる場所には終わりがあるのだ、という信念に基づいた行動であったはずです。
我々もまた、物事には必ず終わりがある、終わりが来る、と信じてするものだといえます。とめどもなく、いつまでも、砂をかむような生活を続けられるはずがありません。どこかに、降りられる場所がある、最後に安住・安寧を得られる、そう信じて歩むことこそ、今を生きる一つの支えでもあるはずです。ツチガエルの交尾 ― 2007年07月03日 21時36分37秒

まだ梅雨真っ最中で、空梅雨気味ではありながらも、そこそこ降雨があり、水路は水涸れにはならないようで、何匹も飛び跳ねるのがわかります。現実に、着実に(この表現は変ですね)、間違いなく、減少している蛙たちですが、運良く残されたこの土でできた水路を住処と選んだ彼らはまだまだ生き延び、子孫を残していくことができるのです。
この水路の片側は上に行くとアスファルトで、壁が石組みになっていて、蛙たちだけでなく、昆虫や小動物、水生生物にとっての小さな宇宙を形成しているのです。あんがい、これが大切で、延長距離は10m~15mほどながら、貴重な水辺を作ってくれています。もちろん、すぐ横の田んぼ、下流の田んぼの存在は欠かせません。この環境がいつまでも残されることを私はいつも祈っています。歴史に盲目な米国の前国務次官 ― 2007年07月04日 21時25分11秒
原文は米国務省のページにあります。 問題の部分は、
And in fact, I think that most historians would agree that the use of an atomic bomb brought to a close a war that would have cost millions of more lives, not just hundreds of thousands of allied lives but literally millions of Japanese lives.ですが、米国の歴史学者でさえ、こんな妄言に同意することはないでしょう。とても外交を担った、あるいは担う人の発言とは思えません。まだ、久間前防衛相の方がはるかにましです。歴史を知らないのです。もともと、ボルトン前国連大使と近い、かなりの保守派だとか。それにしても理解に苦しみます。 日本政府としても、安倍首相自身が確認してから(ホームページにあるのですから簡単です)厳重に米国政府に抗議すべきです。北朝鮮のことではほとんど日本は蚊帳の外に置かれて無視されているのですから、それこそ、自国のまさに歴史上最初(で最後であるべき)の被爆の悲惨な被害をはっきりと知らしめ、その「正当性」などを政府の高官だった人に言わせないようにしなければなりません。これは、「認識」の問題ではありません。恐ろしい傲慢さであり、ひどい無知蒙昧です。物事がまともに理解できない人なのです。
私たち日本人が見くびられ、見下され、本音ではいてもいなくてもどうでもいい、そんな存在とみなされている現状に怒るべきです。私たちは、原子爆弾の実験台ではなかったはずです。私たちもまた、歴史を知り、学び、考え、事実を伝えるべきです。
ラミーカミキリ出現 ― 2007年07月05日 20時06分37秒

以前のブログの記事でも取り上げたゴマダラカミキリでさえ、環境の悪化に伴い、増えているとされています。実際、見かけるのは二次的な環境であり、街地周辺やあれた土地の周囲です。目立って大きめですから、誰でもみつけることができるでしょう。これでさえ、ですから、外来種で繁殖力の強いこのラミーカミキリがいよいよ私の住む土地にまで侵出してきたとなるとこれは大問題です。
およそ、境目の無くなる傾向の強い生物界であり、その上に温暖化でますます暖かくなって、外来種はもとより、本来生息してこなかった、できなかった、好ましくない種がどんどん増加するのはぞっとするものがあります。せめて、すぐにでもできる、手の打てる対策として、環境の悪化を止める、荒廃させない手だてを考えることです。荒れた田畑の耕作もそのひとつでしょう。自動車の削減、あるいは全廃はかなり効果的な(自動車道路も含めて)手段です。ナデシコの色合い ― 2007年07月09日 21時44分37秒

この色が目を惹きます。山に近い場所、河原、道ばたで多いと思えるのは薄い桃色です。今日は海岸の段丘で一面に咲いていたところを見たのですが、ここの色は圧倒的に薄紅色でした。色の違いがどうして、どこから、どのように発現されるのかはわかりませんが、環境要因はある割合で効いていると思えます。
人工栽培がほとんどのバラやカーネーションを一輪刺して喜ぶよりも、このカワラナデシコを二輪、立てておくととてもいい感じです。不自然さも作為も細工もなにもない、そのままの清らかさを愛でたいと思うところです。猫の隣 ― 2007年07月10日 21時45分23秒

彼にとっては何者か、というまなざしを向ける対象であり、私はその凝視の的とされていつも構えていなければなりません。その心はいつも、隣人のおばさんにあるのか、家にあるのか、今朝も後について戸を開けてもらってにゃあ、と短く鳴きながら消えていったのでした。
斜め裏の隣にはまた別の、野良ながら居着いた家族がおり、うちの畑に夜になるとは遊び周り、嗅ぎ回ってどうにもなりません。近づいてもぐるぐる回り、なかなか逃げていかないので困りものです。中心はいずれも彼ら、彼にあり、私たちではないのです。生きるのは、その心がその中心に存在するかどうかにかかっているのだ、と思い知らされます。その目、猫の目。ヤブキリとヤブカンゾウ ― 2007年07月11日 21時49分38秒

ヤブカンゾウもその名の通り、藪、というか背丈のある草の中に汚れたオレンジを付けているわけで、その環境はヤブキリにとっては好ましく、餌も豊富なようです。
まだ夏というには太陽の光も熱も乏しいのですが、もうすでにヤブキリは立派な成虫となり、大きく育っています。季節を考えると、早い出で立ちで、むっとするこの暑さで飛び出てきたのは成長の早さのせいでしょう。この、もし繁殖が進むとすれば、キリギリス類の早生はどう見たらよいのでしょうか。またカマキリの子 ― 2007年07月12日 21時12分27秒

庭に出てくるのはどこかに卵鞘があったからなのか、風に吹かれてとんできたからなのか、何かにくっついて運ばれてきたのか、探してみたところでは後者2つの可能性大、というところでしょうか。
カマキリの生態系での位置づけやその分布、繁殖の特徴などは私は不案内でわかりませんが、その食餌行動を考えるとそう大きな役割には至っていないのでは、と勝手に現在は思っています。もし何かを見いだせればおもしろいのですが。つゆの後先 ― 2007年07月13日 21時21分03秒

水玉に、水晶球のごとく、未来ではなく現在の対極の姿を映し出しています。滑りがよければすぐに落ちてしまうと思うものです。でも溜まるのです。これはササの細かな棘のような毛状構造にあるようです。ササの葉の側面や突先などをなでるとわかります。表面を逆撫でするとわかることもあります。
今年の梅雨はそういった露を残すまもなく、今度は末期の大雨と台風です。静かで趣のある露のしずくを愛でる余裕など、九州や沖縄ではなかったでしょう。はじめは空梅雨、終わりは豪雨と台風で締められる、この気候の激化はまた、繊細な感覚さえ、奪ってしまいかねません。
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