人間らしさ2008年09月26日 21時32分28秒

秋のルリタテハ
社会を形成する動物として、私たちは単に種としての「ヒト」ではなく、「人間」として生きることを自ら要請するのだと信じます。もしそうでないなら、私たちは他の獣たち以下の生活を強いられるでしょうし、無法で無謀で摂理をさえ理解しないなら、生きることはかなわないのです。当然の帰結として。誰かが誰かを取って食う、一方的に虐げる、当然の人格や人間としての尊厳を認めない、そんな関係でヒトとヒトとの関係が成り立つ道理がありません。

互いが互いにその存立を積極的に認め、対等で平等な存在として何の障害もハンディも負わせずに、まさに、生きていることそのものを生きていることとして見ることこそ、社会が成立しその維持存続がはかられる基礎であるはずです。公平で公正な互いを律する法があり、その遵守を不文律をも含めて確認しうるのであれば、その社会は健全で自然の摂理にも自ずと従うような動物社会を形成するのです。

ことばどおり、非人道的な、人でなしと言われるがごとき行為や言動を顕在化させるような誰かが歩くとしたらそこには人間らしい生活や心ある関係は生じはしません。一方的に、何も尋ねることさえせず、ましてや、議論さえ、主張さえ聞きもせず、強圧的で抑圧的な言動や行為を繰り返せばそこにはもはや人間らしい姿はどちらにも見られなくなります。一方が自らの何も顧みない「目的」のために一方を害するときにはすでにその退化と崩壊が始まっているのです。いえ、そう考え始めたときにはもう、人間らしさを自ら否定しているのです。

=== CLICK で拡大します ===