雨後のヒメアカタテハ2007年06月02日 22時05分33秒

朝の光をいっぱいに受けるヒメアカタテハ
春というより、初夏のこの季節の出現は久し振りですが、ヒメアカタテハはそれほど飛び回るということなく、日当たりのよい場所に留まっては羽を広げ、温まっていたようでした。今朝はそれでも15℃近辺で、チョウにとってはちょっと不足していたのでしょう。

きのうまでは早朝は降雨でその後も小雨、霧雨とおもわしくなく、チョウなどはまず飛んでいませんでした。嬉しさこそ、きょうのチョウの跳ねまわりだったのかもしれません。それでも、日中は27℃まで上昇、南風も強めで暑い夏日となりました。こうなると、チョウたちはむしろ飛びます。写真などは撮りにくい季節です。

この地域のチョウの出現は確実に減っています。シジミチョウすら、絶対数が少ないことがだれにでもわかるくらいです。移動と生息・繁殖域のシフトが進んでいるのかもしれません。顕著な原因としては食草の減少が考えられると思います。種類や生育の変化がそれを感じさせますし、昆虫の身近な場所からの消失がそれを物語っています。

初夏のアサギマダラ2007年06月03日 21時30分26秒

トベラの花で吸蜜するアサギマダラ
私がこの地でアサギマダラをこの季節に見つけるのは今日が初めてです。 いつも、例年、9月から10月にそこかしこで渡ってきた彼らを見るのですし、 うちの畑にもやってきますが、トベラの花咲くこの時期にはお目にかかるのは 珍しいことです。

ときおり、新聞やテレビで、羽に印をつけて移動を確認した、とかいう話を 見聞きしますが、それもこの季節ではありませんでした。いつも秋のこと です。発生は春で珍しくはないそうですが、実際に身近に見出すことが 意外なのです。トベラの特有の強いにおいが好きなのか、この花の蜜が おいしいのか、よくわかりませんがおおきなトベラの木のまわりを行き来 していました。

気温は朝から高めで20℃前後、日中は25℃前後と南風を伴いその温さ を運んできています。アサギマダラには似つかわしくはありませんが、そ の移動手段と花の季節が符号したのでしょうか。

イボタノキ、北斜面でも盛り2007年06月04日 21時24分47秒

北斜面のイボタノキ
小山の北の斜面に生えています。イボタノキ。特徴的ならっぱのような小さめの白い花の塊は遠くからでも目立ちます。咲き始めたのは5月の下旬でしたが、ようやく、すべてが花開いたのです。昨年の写真は日当たりのよい山の東でしたが、これはすぐ下のアスファルトの道の上なのです。

あまり日がささない、西日が少し当たるかな、というくらいの暗めの道ですが、春は東からその方向に沿って光が満ちます。この先にはすぐ、野茨(ノイバラ)がいくつもの群落をなしていて、道全体がその香りに包まれます。そろそろ花の終わりですが、それでもきょうもまだ、匂っていました。

白といえば、ここのところ、田圃の縁や畦にはチガヤが揺れています。白い穂をいっぱいにつけながら風に吹かれて一斉に靡いています。静かなイボタノキの白い塊とは対照的です。古の万葉の古歌にあるとおり、贈りたい気持ちをしかし、どちらも思わせてくれるのです。

赤いバラ2007年06月05日 22時06分54秒

サザンカの上に突き出たバラ
いま目立つのは白い花々です。きょうも電車の窓から見えたのは白い棚のようなヤマボウシとかウツギとかでしたが(里には白いキク科の種種の花)、色合いを変えているのは赤い花です。紅が勝ったような薄めのツツジもまださいています。道端にはマンテマがいっぱいです。でも意外と近くに、その鮮やかな色を見せてくれたのが、バラ、でした。

すぐ近所の、冬は見事な山茶花の垣根の、その上に突き出ていたバラがなんとも美しく、自然とは異なるそのはっきりした咲き方、出方、主張の明確さが私たちをとらえてきます。ノイバラとは違う、その大きさ、重なった花びら、重そうなのに倒れず傾かず突き出て妙なその姿は目を奪います。

そんな風に、もし私をとらえて離さない、そんな美しい人が目の前に、いつもいるように現れてくれたら、と願わざるを得ません。多少、とげがあろうと、私なら、その姿からそれを取り除いて見せましょう。などとつい、考えてしまいます。

黄色い主張2007年06月06日 22時13分01秒

モンキチョウとマツヨイグサ
海岸段丘の斜面の柔らかい場所にはコバンソウや背の低い草、マンテマなどが今ははえていますが、取り立てて、とりわけチョウたちに好ましい蜜をふくんだような花々はありません。それなのに、モンキチョウは―2頭いました―ここを周回し、旋回しながらとまっては離れ、離れてはとまり、といった具合でなぜか私の前に現れたのです。なぜでしょうか。

一方、農道の脇には相も変わらず、マツヨイグサが一列にいくつもの集団となって生えています。色が変わり始めて橙色になりかけているものも多く、その消長はいつもの風景です。そんな中、一輪、まっ黄色の一本だけの花がありました。南風に揺られてもまた戻り、それを背にして私に向かうのです(そう、私に?)。

自意識過剰なほどにその身を思う私はそんな彼らの主張を受けとめられたのです。色の濃さほどに物を謂う、その声を受け止められたらここに生きる価値を私自身が再認識できるはずです。形こそ違え、生物として、声高にいうでもなく、でもはっきりと主張する、その姿勢こそ、伝えたかったのかもしれません。

市井の監視は犯罪2007年06月07日 21時44分41秒

山裾に咲いたホタルブクロ
今朝の朝刊に掲載されていた、自衛隊(特に陸上自衛隊)の「情報保全隊」 による一般市民の監視と記録はさすがにぞっとしないどころか、恐ろしい行為です。何より、その動機が(上からの命令・訓令は置いておいて)おぞましさを感じさせます。反対するもの、相反するものを注視するだけどころか、見えないところから、あるいは紛れ込んで、または堂々と、その「情報」を収集し、記録する、そんな態度を平然ととれる、その意図と心性が何より恐ろしさを感じさせるのです。

これは何も、旧軍部や今の自衛隊に限ったことではありません。実際、昔あった隣組の監視や通謀と共通した内実を私は知っています。道を天気のよい日は歩いている、時折止まってじっと見ている、あるいはまた写真を撮ってもいるらしい、とかだけで、不審と思いこみ、決めつけ、どうかすると逆に近寄って脅してくる、強圧的な態度で一方的に言いつける、常に離れたところから監視する、そんな行為を恥ずかしくもなく行う「住民」さえいます。本当に、恐ろしい、卑屈で見にくい行為です。現実として、何も悪くないのに監視される理由などありませんし、ましてやおかしなことを問われる理由もありません。それは明らかに、やさしくいっても名誉毀損であり、恫喝があれば脅迫行為でもあり、もしそれで歩く自由も奪われるとしたら、それは強要です。でも、それ以上に、人間として恐ろしく恥ずべき行為なのです。

そういった「住民」はきわめて都合のよい存在です。協力者となり、仲間や親しい人たちさえ、「売ってしまう」でしょう。その内実はもっと汚いものです。 自分たちの醜さ、卑しさをずっと以前から持っていて、その汚さを覆い隠さんがため、また第一に正当化するためにそれが当然であるかのように全くないことまで作り上げて(でっちあげて)それらをそうであったかのように自分たち自身で思いこみ、信じ込むのです。そういった連中が「ふつうの」「善良な」一般庶民として振る舞い、生活している、そんな空恐ろしさがこの地にはあります。本当に嘆かわしく、恥ずべき者たちです。

必要なのはもちろん、誰かを標的にしてつるし上げたり、犠牲者にしてこと足れりとすることではなく、そういった自衛隊(あるいは軍部)や卑屈で浅はかな「住民」自身にその醜さや汚さ、その行為の元となっている彼ら自身の愚かさ幼さと著しい偏見や身勝手な先入観に気づかせることでしょう。もともと、信じ込んでいる彼らにとって、他者の言は「敵意」以外の何ものでもなく、聞く耳を持ちませんから、彼ら自身が逆にされる側におとしめることが効果的でしょう。同じ目に遭わなければわからないのです。昔からいうように、「馬鹿は死ななきゃ直らない」のです。

センダンとアブラギリの花2007年06月08日 21時50分13秒

センダン(左)とアブラギリの花
山の下の田んぼとの境目にあるのです。アブラギリの野生化(もともとか)した一本の木がめだって生えています。今は花の季節で、遠くからも白く映えるきれいな花です。ちょっとみるとわかるのですが、雌蕊・雄蕊が黄色のものと紅色のものがあるのが見て取れます。真っ白な中、とてもきれいで、とてもあの無骨な実のなる木とは思えないほどです。

一方、今はまた、センダンの花期で、直ぐ下でもフワーッとして匂うとてもさわやかでいい薫りを体験できます。毎年、このいいにおいを嗅ぎに山の下にやってくるのです。花も見上げると薄紫にぼおーっとしていて何とも美しく、この薫りはまた違った山の風景として知ることになります。

もう今は卯の花は終わりに近く、野山の白さは消えかかっていますが、山に入ればまたコアジサイの光るような青さを知る季節となり、さらに夏が来ればまた違った花を見つけることになります。その境に咲くこの2つの花は生きている証であるかのような、切れ目のない姿を現しているのです。

乾いた雨2007年06月10日 21時47分52秒

降りたコチドリと周囲の水滴
梅雨の前、菜種梅雨とはよくいいますが、そんな季節ながらそうでない、乾燥した日々の延長ともまた違って、今日の雨は降るには降ったが湿気が、つまり、気温の割に含んだ水蒸気が少なかった、そんな雨だったのです。 「気象情報」だけをみていてはおそらく、「見逃す」のがそんな、その場・地にいなければわからない「情報」であり、観測される重要な要素です。

すぐに落ちて、草の上などは水滴となり、露となって目に見えて、それでも大きくなく、小さな粒で数えるほどに着いていて、全体にしっとりとするのとは違った結露の様子を示していたわけです。写真のコチドリの閉じない目を凝らしても、そんな実際は見えなかったかもしれません。小さめなのでみにくいかもしれませんが、露となった水滴が見えると思います。

じめじめとした梅雨とは全く異なった今日この頃の気候は来るべき、恐るべき乾燥の進む気候の一側面を表しているかのような、そんな気がします。不思議と(全然そうでない)洗濯物が乾き、それでいて外は雨、前日前夜は雷雨だったのに、またその上に北よりの風さえ緩やかに吹いていたのに、こういった気候を示すのはかなり、奇異な状態です。これがこれからの気候の変動をまた、示していると思うのです。

釣り即ち暇のこと2007年06月11日 21時43分06秒

暇な釣り人一人の海岸
朝早くから、海岸に釣り人がいました。こんな朝に、しかも週日で、その人は どう見ても退職した年配の人でもない、まだ30代~40代とおぼしき人でした。確かに、けさは凪いでいて、陸も風もなく(当たり前か)、釣りにはもってこいだったかもしれません。

もともと、釣りをするのは、魚を捕ることが目的である漁師とかその時々の食事のためだとかを除いて、その暇を楽しむための行為です。決して、釣ることを目的としたものではありませんでした。だからこそ、その人は変にさえ、映ります。でもその幸せ感はあまり伝わってはきませんでした。

静けさや穏やかさ、時間を享受することの至福さ、釣り糸を垂れることの楽しさ、そういったことどもを十分に味わい、持てることはその人にとってこの上ない人生のはずです。傍目にそれをとやかくはいいますまい、と思っても、その観察は自ずとよからぬ方向に進んでしまいがちです。きっと、まだ私も別の時間を持ちたいからに他なりません。

オカトラノオ今年も2007年06月12日 20時11分11秒

オカトラノオの埋もれた花穂
いつもの散歩道、ほとんど荒れ地の脇におよそ80ほどの花穂を、文字通り、垂れたオカトラノオは今年も白く、花期を終えたノイバラの代わりに咲いていました。去年と違うのは周囲がさらに雑然として高く、もっとあったはずの群落が消えてしまったことです。こうして、少しずつかがさっと減って、いずれは、いえ、数年で異なる植生となるのかもしれません。

これからの季節、通常なら、降雨となり、足も遠のくのですが、今年はどうでしょうか。それとて、花の季節はしばし、お休みとなります。夏にはまた、濃い色が野原を飾ることでしょう。

放置された土地の変遷など、自然としては見にくく思えますが、その現実は観察するに値する価値があります。だれも、手を入れない、手をかけようとしないところに、ある意味、「自然」があるからです。ゴミをべつにすれば、その変化と植生はそれゆえ、楽しさを感じさせるところがあるからです。