目的、標的、計画的2008年10月13日 19時47分35秒

西日のキタテハ
何のためにするのか、と思われる行為や行動は多々見られます。人間でも、動物でも、あるいは、意思はないと思われている植物でも、実際にはそれらに意味を見いだすわけです。それはしかし、観察者たるヒトがいて初めて言えることでもあり、ただ存在しているだけでは何も言えません。でもそれらが合理的で結果をもたらす可能性を持ったものならばそれらは自然と認められますが、そうでない場合、しばしば不幸な結果、あるいは望まない現実に遭遇することになるわけです。遺伝的・環境的な誘因をもったならばそれらは計画的でも理にかない、意味をもちます。けれど........。

もっともよくないのは標的を持つ場合ですが、それには必ず計画的な意図がついてきます。そのため、対象は犠牲になることを避けられず、傷つくくらいでは済まなくなるのです。生存と存続のための必然なら、自然の摂理にかなうでしょう。でも人間ではそうはいかないのです。わたしたちは合理性を見いだせない種類のそれらに計画性を併せ持たせ、ヒト同士でさえ、奪うのです。そこには本質的な必然性はありません。だからこそ、たとえば、悪意や利己的な目的を持ち、自分本位に思考し、遂行しようとするときには重大な侵害・蹂躙、そして否定へと進んでしまうのです。

ブレーズ・パスカルが述べたように、『人間は考える葦である』のですから、まず、自らを最低限、振り返ってみることです。顧みればこそ、見えなかった自分自身を見いだすことに気づくでしょう。だからこその人間です。単なる、生物としてのヒト、ではないのです。しかるに、キタテハのように、見境無く汚らしいセイタカアワダチソウにまで管をのばすような人間であってはなりません。それは支配者に魂を売ることと同じです。

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