またウソ、晴天の……2007年02月01日 21時33分01秒

ウソのメス、ついばむ
山の裾野は木々も芽をつけ、鳥たちには好ましい状況のようです。また、フジテレビの(系列の)ウソが発覚したようですが、『個々の事例には……』とのこと、そういった丸投げさえ責任転嫁で済ますフジテレビとはなんぞや、と問うても当のフジテレビは涼しい顔です。

ウソといえば、今日は少なくとも、降雨の確率は50%以上だったのですが、曇り空でさえなく、寒いながら晴天でした。完全な気象情報、天気予報のウソ、です。こちらは毎度繰り返されている上、民衆ははじめから当てになどしていないので、またか、とさえ思いません。

今日は5羽でした。ヒョウひょうひょう、とかピョウピョウとかいった感じの鳴き声とともにやってきたのでした。

久しぶりの雪の一日2007年02月02日 21時17分42秒

暖冬で雪のない冬が今日は一変、朝から(昨日の夜から)ずっと雪でした。 一日中、「ふつうの」雪です。珍しい冬です。気温も0度付近で変わらず、寒い一日でした。

IPCCの会議がパリで開かれていて、その報告発表もされていますが、特に注目したいのが交通による温暖化ガス排出の割合で、少なくとも、世界総計で21%とのこと、これは、たとえば日本国内に限ればもっと増えるのです(詳細は報告や発表を参照)。つまり、間違いなく、自動車を集中的に減らすか使用を控えれば削減可能なのです。間違いなく、自動車は増えすぎました。

いますぐ、手を打たないといけない、その目に見える、そして、誰でもが実行可能な有効な対策として、内燃機関による自動車の使用と生産をやめていくことがひいては、無駄な道路建設やそのための自然・環境破壊をもとめることにもつながります。雪はわたしだって、いやですが、自然がおかしくなって命が奪われるのはもっといやです。

晴天のカワラヒワ2007年02月03日 21時53分58秒

明るい光の中のカワラヒワ(
珍しくも何ともないのですが、道すがら、ピロピロピロと鳴いて群れで来るのがカワラヒワです。冬は特に黒っぽく見えたりしますが、今日のようにほとんど快晴に近いような晴天の明るさの下では特徴的な色合いがよくわかります。

穏やかなせいか、近づいてもすぐには逃げず、写すのは割に楽でした。陽光といっていいおかしな冬の光をいっぱいに浴びているのはさぞかし気持ちのいい止まりでしょう。

寒い憂鬱2007年02月04日 21時24分29秒

きっと冬が私を憂鬱にさせるのです。ええ、あたりまえのようですが、冬の寒さは逃れようのない寒さで、常に北よりの強い風が吹き付ける、これが身の不幸や不運、不調と重なれば恐ろしいくらいに悲しくさせられるのです。

きょうの気温は昼間でも5℃前後で風が冬らしいため、その寒さは晴天にもかかわらずかなり堪えました。会いたくても会えない、交わしたくても、助けてもらいたくてもかなわない、そんな思いが余計につらく感じられます。うちに戻って、じっとこたつ猫になっていたわたしでした。

早すぎる春、確かに立春過ぎたけど2007年02月05日 21時31分43秒

オオイヌノフグリと早すぎるキンポウゲ
道ばたには早くも、オオイヌノフグリの青いかわいらしい花が満開です。そして、あろうことか、1個体だけでしたが、キンポウゲ(もちろん、野生種)まで咲いていました。暖かくなってからの花ですから、驚きです。確かに、今日は14℃まで上がりましたが。

しかも南風。この間から、時折南風が吹きます。でも冬にはこの地方ではまずあり得ないのです。この風は間違いなく、春の風です。間違いなく、異常です。

人間活動とその分布範囲の偏りもまた、気温やCO2の排出の集中化を招く意味で、温暖化の要因の一つだと言えます。特に交通の増加と集中、煩雑と高速化の要請によるその助長など、輸送にかかる温暖化ガスの増大は顕著です。分散と地域化(反グローバリズム)はその解決策の大きな一方法です。

早くも渇水の危惧2007年02月06日 21時42分12秒

鉄橋下の水量
きょうも暖かく、14℃を軽く超えました。朝から霞み(そう、春霞のような)がかかったようで、山々が薄ぼんやりと青白く、空気もほんわかぬくい、そんな一日でした。どう感じても、春そのものです。

それで目を下に向けたところ、川の水量がどうも冬にしては、そして、春先ならなおのこと、少なすぎることに気づいたのです。例年、冬は雨もあり、雪解け水も加わって充分な水がありますが、今年はどうでしょうか。夏の渇水期に比べても少し多い程度なのです。写真で、目安の目盛り板の下まではきているはずですが、20cm前後したのようです。

冬の降雪・積雪の少なさ(特に山)は水の供給にとっては大きな影響を与えます。充分な滲出と抱水を期待できないからです。こういった気候の持続はさらに、気が早いようにも思えますが、夏の時期の渇水を招きます。それ以前にそれまでの期間の包含を得られない可能性もあるのです。

でも、だからといって、梅雨期の豪雨などは願い下げです。けれど、異常気象の常態化はそれもまた、危惧されるのです。

北風を避けたカワラヒワ2007年02月07日 21時37分23秒

南斜面の木にとまるカワラヒワ
きょうも快晴で青々とした空と日差しはうれしいことは嬉しいのですが、今がふつうなら厳冬のはずですから、おかしな気分です。ただ風は今日は冬らしく北寄りで割にあり、気温も10℃そこそこ(少し下回った)、じっとしていたら寒いところです。

カワラヒワもこの風を避けて、山の南斜面の木にとまってひなたぼっこをしているようでした。みなそうなんです。田んぼの西向きの畦にはタヒバリが群れをなしていましたが、皆、草の陰に入り、南側に向け体を預けているようでした。山の鳥たちも、南の陽当たりにしばし留まる、そんな行動をしています。

わたしたちもまた、この寒く冷たい北風を避けたいと思うのは当然です。いやなこと、冷たい仕打ち、身勝手な企業や高圧的な公務員などをうっちゃって北の冷たい水たまりに顔を押しつけてやりたい、そんな気持ちになるのは当然です。そして、避けるという行為によって、不正や不合理をねじ伏せるのです。結構な技ではありませんか。

いつもの朝か2007年02月08日 21時52分22秒

北西から北北西に向かう今朝の船
けさも穏やかな朝で、霜が降りていましたが、晴れて海も穏やかにないでいました。それでまた、少し久しぶりに(変な言い方)、いつもの漁師が舟を走らせて北へ向かおうとしているようでした。

時間的な違いや漁の適否でその漁場での操業は変わるのでしょう。海岸に私が着いたときにいた場所(海上の)からすぐに北へ(北西~北北西)進路を向けたようでした。でも、この風景は見慣れたような、春の海の風景です。

ごく近海での漁では今では充分には獲れません。それは資源と変動や環境変化に伴うばかりではなく、需給関係で要求される魚種やその量に見合う漁獲がないからだと思われます。それが当然、と踵を返す前に、私たちはもっと本来の量と漁を考えるべき時、と思うのです。

2つの責任回避~フジテレビと横須賀市~2007年02月09日 21時11分47秒

解せない、おかしい、そんな風潮のなかでも外面的に明らかな事実の一方で、どうしてこうも厚顔な態度をとれるのか、と思える2つの事象がきのう、きょうと見えています。ひとつは昨日の横須賀市議会と市長の、ふたつめはきょうの総務大臣の答弁に代表されるところです。

横須賀港への原子力空母の寄港・入港の問題を市民が住民請求したことに、市議会は否決、市長にいたっては市が決めることではない、国の専管事項と言い切ったのです。なぜそんなことを平気で言え、できたのでしょうか。市民にとっての万が一の危険と存在自体の問題を市や市民と無関係にとさえいえる対応を代議員と市の代表が避けたこと自体、あまりに異常な神経です。昨日のJNNイブニングニュースでも、杉尾氏は『根本的にわかっていない』といって怒っていましたが、その理由を彼らは一顧だにしてはいないでしょう。

菅義偉総務大臣は答弁で「関西テレビ」の捏造を受けて法制化を検討、とのたまったのですが、本来、この責任はその実際の制作会社でもましてや関西テレビでもなく、大本はフジテレビであったはずです。どうして、週間新潮を除いて放送媒体も印刷媒体もフジテレビの責任を問わないのでしょうか。おそらく、視聴者にとって、あの番組は明らかに、フジテレビの放映であったのですし、アナウンサーはフジテレビの女性であり、出演者もフジテレビが呼んだのです。全国ネットだから。元締めの親分の責任を問わずして、トカゲのしっぽ切りで終わらせる、あるいはそういったことがあったら、今後もそういった責任と罪を押しつける、そんなレールがルールにされていくのです。恐ろしいやり方です。

午後の陽光2羽の喜び2007年02月10日 21時43分53秒

陽光を浴びるシジュウカラとホオジロ
光あるところ、ヒトも生き物たちも集まります。明るく、暖かな光は実に嬉しいものです。朝は小雨、その後も曇っていて、時折小雨。午後、晴れ間が見えてきたので出てみると、木々にやってきたのは西からの太陽の光を浴びようと現れたシジュウカラとホオジロでした。

羽つくろい、日向ぼっこ、これは同じ気持ちになるのはわかります。とりわけ、冬とくれば、これは滅多にないことですから、陽の光をいっぱいに浴びたいと思うのは至極当然のことでしょう。

燦燦と降り注ぐ激しい太陽のもと、喝采を浴びたいと思うのもまた、それで若く逞しいときにはいいのかもしれません。でも静かでも、平凡でも、穏やかに、しかしながら平等に降る光を時にその場で妨げられることもなく、いっぱいに受けとめることを望むのもまた、贅沢でもなく、野望や努力などというややこしく疲れるものとかかわらず、好ましい姿です。いえ、それこそ、誰もが本来望み、また、望んであたりまえに得られていい、機会の均等とまったくの平等の一つの典型とも言えるのです。ヒトが、生き物たちが生きることに差別的な境遇や待遇が正当化されていいはずがありません。