曇り空のシメ2009年01月21日 22時17分22秒

シメのオス
雪の続いた日々もときに穏やかに晴れたり消えたりします。そんな一日の午後は何となく(でないかも)出歩きたくなります。そういった散策は意外な発見や出会いがあったりするものです。そう、それで今日は、あまり見かけない鳥を見つけました。シメです。写真はオスで、他にはいませんでした。

冬の野鳥として枯れ木に多いのはカシラダカやホオジロ、ツグミにうるさいヒヨドリですが、ここ数年、ウソがつがいで何羽もやってきていますし、ぴよぴよと目立つカワラヒワは留鳥で、やっかいなムクドリもいます。でもこのシメは珍しく、晴れていたらなあ、とちょっと残念な感じもしましたが、特徴的な色合わせはおやっと思わせただけでも成功だったのかもしれません。

何も変わらない北の沿岸で明日を思うとき、意外な幸せが舞い込んでこないかとふと思う歩みはまだ、止められません。今年こそ。

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冬も眠れない2009年01月22日 22時18分39秒

でてきたシカの糞
山の動物たちは雪も吹きすさぶ真冬でもやはり、眠れない、眠らない日々を過ごさねばなりません。そんな中でしばらく雪の消えた期間、下ってくる彼らにとって、麓の枯れた田畑もまた食のための大切な時空をその生活、いえ、棲息の不可欠な流れに組み込んでいるのです。

今日も、猿たちは(およそ40匹、数えたときは39匹)田んぼでしきりに落ちた何ものかを口に運んでいました。少ない鳥たちは枯れ木よりも、いえ、枯れ木から狙ってか、下に飛びまた上を翔るのです。シカも、イノシシも、じっとしていては生きられません。写真のように、糞もあり(もちろん、サルも)、ちゃんと餌にありつけているようです。夜はどうしているのでしょうか。

辛い時期、時間を共有すべきはやはり同じ境遇にある人たちです。ひとりひとりはつながりはなくとも、気持ちに変わりはありません。動物たちと同じく、また我々も、かけがえのない時間を生きています。失うばかりの時の流れにもなお、求め続ける必然的な要請を内包しているからです。変化を、つまり、現状の否定と現実からの脱却を目指す以上、私たち自身が選択して行動しなければなりません。変革は私たち自身の心ひとつにかかっているからです。

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暖かな海岸2009年01月23日 20時22分23秒

シメ4羽(見ればわかる)
今日は冬にしては暖かく、風も無く、穏やかな日和でした。午後3時15分までは。それで、海岸近くを歩いたのですが、海は少し波があり、テトラポッドの上にはウミネコたちが134羽も休み、中にウミウが反っくり返って2羽混じっていました。午前中の太陽も午後には隠れ、薄ぼんやりとした光の落ち込むような水平線はどこか、陰鬱で辛いところがあります。海岸線は相変わらず、流れ着くゴミの連なる美しさとは正反対の灰色の空を地面に降ろしたかのようでした。

海岸段丘の裏側は南向きのせいか、いつも鳥たちの留まりを支えていて、このあたりでは大切な野鳥の飛来を何も改変しないままに迎え続けています。実際、それほどきれいでもなんでもないのですが、その格好の位置と「当たり前のような」周辺環境が好ましいのです。夏の人の多くやってくる時期を除いて、このあたりは野鳥の姿をいつも見つけることができるのです。ほんとうに、平凡な植生と造りなのですが、意外にそのままに残されているのが幸いしているようです。これからもこのままであってほしいものです。

内陸よりも暖かな海岸周辺はしかし、夏だけではなく人の手の入りやすい弱さや無防備さのゆえか、うつろいやすさ以上の壊れやすい、いえ、壊されやすい危険性をもっています。つい数ヶ月前までは荒れ地のままにノイバラの香りを嗅ぐこともできたあたりもついに重機が入り、何やらを造成中です。草原だったころには他にも多くの野鳥、たとえばアオジだとか、幾種類もの藪好みの彼らの餌場と活動場所になっていたのがうそのように消されてしまいました。そうやって、ただ愚かさや自分本位の力任せの行動だけが横行してしまうのです。これもまた、暖かさのなせる技でしょうか。いえ、違いますよね、間違いなく。

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ヘシュル回の機能低下2009年01月25日 22時06分28秒

カシラダカ
今日は好天に恵まれ、かなり冷えましたが(朝は零下2.8℃)、冬ならではの透明度の高さと空気のきれいさとで歩くのにはとても健康的な一日でした。北の海岸沿いではカシラダカやカワラヒワが群れていて、昨日の雪がなければ、と思うところです。藪に潜み飛び移るシロハラやキジがいたりして、鳴き声だけを聞いていても多くの鳥たちを区別することができます。一斉に鳴き飛んでいてもどこにおよそどれだけ、どんなのがいるのか、とわかるのはヘシュル回(Heshl's gyrus)の働きだとか。

困るのは町中でのよくない声の飛び交う環境です。カクテルパーティー効果で意外に人は知っている人や目的の人の声を聞き分け、聞き取ることができるのですが、その訓練を知らずにすることも意図的に行うことも阻害され、否定されることになるのは作為的な悪口雑言以上のささやきや圧迫を伴う人の声でしょう。私たちが知りたい、聞きたい声を失うのはそんな悪意や悪い目的に充ち満ちた音です。そんな生活を強いられつ塞ぐことも防ぐことも日常的に困難なのはまさに生活せんがために他なりません。

夜のテレビ朝日(あるいは朝日放送)の聴覚の特集はなかなか参考になりました。最初の指揮者のオーケストラでの音の区別や指摘は知ると本当に驚くべき能力を開発していくのがまさに音楽での職業のなせる技と感服してしまいます。打検技師の聴覚も訓練のたまものとのこと、そんな集中できる、迷わない環境や人生こそ、といったところでしょうか。知るべきはそこにあります。求めるべき時間や環境を社会にもたらす、築きあげる思考と工夫を新たな活力として、連帯して進めるこれからを持たねばなりません。もう、今までとは同じことでは打開も超克もできないでしょう。違った明日を創っていかねばなりません。

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貧しさは覆うべくもない2009年01月28日 22時32分10秒

冬枯れの山
いつも思います。歩いていても、じっとしていても、心の貧しさだけはすぐにわかってきます。実際、現実の環境でしばしば体験することだからです。こっちをじっと見ていたかと思うと、歩いて近づいていったら急に吐きかけるごとくに言葉で傷つけるわけです。もちろん、見ず知らずであることがおおいのですから、質が悪いのです。一方的に、高いところから、逃れようもない形で反抗・反撃できない場所や手口で行うわけです。腹が立つより悲しくなります。どうして、いつも、一番弱い人を狙ってそんな情けない、恥ずかしいことばの暴力を使うのでしょうか。

いつも思います。道ばたのゴミ、藪や線路裏とかの隠れていそうな見にくい場所に捨てられた大きなゴミ(粗大ゴミも含めて)、たばこの吸い殻、ティッシュ、コンビニの袋入りのゴミ(これはときどきカラスが咥えていきます)、海岸に打ち上げられた実に多くのしかもたくさんの種類のゴミ、工事のための砂・砂利やそのほかの鉄製の管やなにか、そういったもろもろの醜いあるいは汚いものがとてもよく目立つのです。

たとえ、誰かが、何度も、注意したり警告したりしても、テレビやラジオ、あるいは公共の広告や役所・集団であからさまにしても、どうしてもこれらの貧しさからでた醜さは消えません。すべて、人の内面の利己的な側面以上の変な優越(したい)意識や自己中心的な欲求に起因しているのはこれもまた、誰しも、理解し認識しているのです。でもなぜなくならないのでしょうか。しかも、子供よりも大人が率先して、先頭に立って、あるいは際だって多く強く、激しくするのです。何が足りないのでしょうか。欠けているのでしょうか。冬枯れの山は緑はありません。でもとてもきれいで見通しもよく、すがすがしささえあるのです。冬ほど、そういった貧しさと寒さをより、感じるのです。

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