燃える炎~怒りの矛先2011年10月05日 12時05分24秒

ヒガンバナ
まだ咲いている彼岸花。好きではない、という人も多いのですが(かくいう私もその一人)、その思い、というより、情念とでも言った方がいいくらいのその花だけの、燃えるような赤と咲き誇る姿は思わず心の中で祈りと怒りの炎が燃えてくるのを抑えきれなくなるほどです。実際、それを体現したかのような人々、とりわけ社会的に抑圧され、あるいは区別され、あるいは虐げられた人々のこらえきれない気持ちは時としてその怒りを鬱屈させてしまうこともあります。その一例として、最近、京都府城陽市で頻発する放火事件があります。

公正で公平な社会こそ私たちが立脚すべき社会であり、機会均等こそ自己実現の礎です。でも現代の日本社会はそれを実現していません。横行する強圧的な企業を中心とした横暴といっても足りないくらいの経済最優先の社会的な強制、3年生からすでに活動をはじめなければならないという、学業そっちのけの本末転倒も甚だしい就活、格差などと暢気にいっていられない就業や賃金、社会保障の著しい未熟さ、欧州は経済的に困難に直面しながらもそういったところには決してしわ寄せを持って行かない大人の風土を考えるとき、国難に直面する今、何を為すべきかをまったくわかっていない政治家どもや一般の人たちにさえ、腹立たしさを禁じ得ません。

何より、あらゆる階層に渡る教育の重要性、いえ、決定的な必要性を感じさせます。先天的に、あるいは致命的な障害を背負って生まれた子どもたちさえ、学校での教育により何とか一人歩きをできるまでに育ちます。何より、教育の価値をそこに見いだすことができます(少しですが働きました)。それに引き替え、健常者として居る人たちにはまったく教育の意味を成さない者たちもいるのです。その割合が増えているように感じます。教育とは、詰め込み教育ではありえませんし、ましてや、そのための教師を作ることでもありません。事実と道理に基づき、社会や自然を観察し、何に視点を置き、いかに考え、どう行動すべきか、それを他者に依存せずに自分自身で思考してよりよい姿を求め続けること、これは一つの方向です。そして、繰り返すならば、ひとりひとりが平等で公平に扱われ、公正な立場で望める、そして何に対しても機会均等であること、これはすべての基礎にならねばならない社会の姿なのです。

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